「ビロードの爪」

E・S・ガードナー/能島武文訳

ドットブック版 209KB/テキストファイル 173KB

500円

依頼人は明らかに変名を使っているとみられる人妻、野心的な政治家との情事を恐喝・ゆすりを専門にする新聞にかぎつけられて、その餌食となるのを極度に恐れている。依頼の中身は「もみ消し工作」だった。秘書のデラ・ストリートは「あの女――ビロードの中に、とぎすました爪をかくしている女ですわ」とメイスンに忠告するが……以降80作にのぼるメイスン・シリーズの処女作。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かして、法廷場面とハードボイルド・タッチで有名なペリイ・メイスン・シリーズを書き、一躍人気作家となった。

立ち読みフロア
 秋の日の光が、窓に照りつけていた。
 ペリイ・メイスンは、大きなデスクに向かって、どっかと腰をおろしていた。何かを待ち構えているというような態度が感じられた。ゆったり落ちついたその顔は、盤上を見つめて、つぎの手を考えているチェスの棋士といった顔つきだった。その顔色は、ほとんど変わることもなく、変わるのは、ただ目つきだけだった。とことんまで我慢に我慢をしてここぞと思う盤面に相手をさそい込んで、その上で、恐ろしい一撃を相手に加えて片づける人間、思索家でもあれば、闘士でもあるという印象を与えた。
 革表紙の書物がぎっしりつまった書棚が、部屋の壁をうずめ、一方の隅には、大きな金庫が、でんと据えられている。いまペリイ・メイスンが掛けている回転椅子のほかに、二脚の椅子が置いてある。事務室は、この部屋の主人公の強い個性のあるものに影響されたとしか思えないような、質素な、きびしい能率一点張りという雰囲気に包まれていた。
 表の事務室との間のドアがあいて、秘書のデラ・ストリートが、気軽に部屋にはいって来て、うしろのドアをしめた。
「女の方で」と、かの女がいった。「ミセス・エバ・グリフィンとおっしゃる方がいらしてますわ」
 ペリイ・メイスンは、落ちついた目つきで、かの女の顔を見て、「それで、きみは、そうじゃないと思うんだね?」とたずねた。
 かの女は、首を振って、「わたしには、いかさまって気がするんです」といった。「電話帳で、グリフィンって名を調べてみたんですけど。その方のおっしゃるような所番地に、グリフィンというのは一つもないんです。市の居住者名簿も繰ってみたんですけど、やっぱりないんですの。グリフィンという名前は、とても多いんですけど、エバ・グリフィンというのは、まるきりないんです。それに、その方のいうような所番地には、グリフィンというのは、まるでないんです。
「どこだね、所番地は?」と、メイスンがたずねた。
「グローブ・ストリートの二二七一番地ですわ」と、デラがいった。
 ペリイ・メイスンは、紙切れに、それを書きつけてから、「会ってみよう」といった。
「かしこまりました」とデラ・ストリートはいった。「わたしはただ、その人が、わたしにはいかさまだという気がするということを、お知らせしたかっただけなんですの」
 デラ・ストリートは、すらりとした体つきに、しっかりした目つきの、かれこれ二十七、八歳の若い女で、鋭くものを見定めようとする目で人生を見守っているばかりか、ものの上っ面だけでなく、その裏までも深く見詰めているという印象を与えた。
 かの女は、戸口に立ったままで、静かに、じっとペリイ・メイスンの顔に目をあてて、「わたし」といった。「なにか、あの人のためになさる前に、ほんとにどういう人だか、先生がさぐり出してくださるといいと思いますわ」
「虫が知らせるのかい?」と、ペリイ・メイスンがたずねた。
「先生なら、そうおっしゃるでしょうね」と、にっこり笑いを浮かべて、デラがいった。
 わかったというように、ペリイ・メイスンはうなずいた。が、その顔の表情は、ちっとも変わっていなかった。ただ目だけが、油断のない色を帯びて来ていた。
「わかった。その女を通してくれ。ぼくが、自分でゆっくり見てみよう」
 デラ・ストリートは、ドアを閉めて、待合室の方へ出たが、手は、ドアの握りにかけたままでいた。二、三秒もたったかと思わないうちに、ドアの握りがまわって、ドアがあき、一人の女が、ゆったりと自信たっぷりの様子で、部屋の中へはいって来た。
 年のころは、三十そこそこ、いや、もしかしたら二十八、九というとこで――立派な身なりで、恐ろしく身づくろいに気をくばっているという様子だった。さっと素早く、品定めするような視線を、事務所じゅうに向けてから、デスクの前にすわった男に、目を向けた。
「こちらへ来て、おかけください」と、ペリイ・メイスンがいった。
 そう言われて、かの女は、かれの顔に目をあてた。かすかに、なんて失礼なというような色が、その顔に浮かんだ。つまり、部屋にはいって来たときには、当然、どんな男でも立ちあがって、かの女の地位と、その女性としての尊厳を認めて、丁重に扱ってくれるものと予期していたといわんばかりの顔色だった。
 一瞬、かの女は、おかけなさいといったメイスンの言葉を無視しようとしたようだった。が、思い直して、デスクの向かいの椅子まで進んで、腰をおろし、ペリイ・メイスンの顔に目を向けた。
「それで?」と、かれがたずねた。
「弁護士のメイスンさんでいらっしゃいますわね?」
「そうです」
 注意深く品定めするように、メイスンを見つづけていた青い目が、ことさらそうしたかのように、不意に丸くなった。そのしぐさが、まったく邪心がないという色を、その顔に与えた。
「あたくし、困っているんでございますのよ」と、かの女がいった。
 そんなことは日常茶飯のこと以外、なんの意味もないといわんばかりに、ペリイ・メイスンはうなずいた。
 かの女が言葉を続けないので、メイスンがいった。「ここへいらっしゃる大抵の人が、困っておいでのようですな」

……第一章冒頭

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