「ヴェニスに死す」

トーマス・マン/植田敏郎訳

ドットブック版 184KB/テキストファイル 86KB

300円

体力の衰えを感じ仕事に疲れた高名な作家アッシェンバッハは、静養のため地中海への旅を思い立つ。ヴェニスに近いリドで足止めを食った彼は、そこに避暑に来ていたポーランド人家族のなかのひときわ優美な美少年の虜となる。エロスと死をテーマにした佳品。

トーマス・マン(1875〜1955)北ドイツの商業都市リューベックの古い商人の家の生まれ。父親が亡くなると、家族と共にミュンヘンに移り、保険会社や風刺新聞の社員として働いた。ショーペンハウアーとニーチェの二人の哲学、さらに作曲家ワーグナーの影響を受け、19歳のころからおもに短編小説に手を染めたが、1900年に発表した「ブッデンブローク家の人びと」で文学的名声を確立した。芸術家的な気質をもった男と、彼が属する中産階級の環境との間の対立というテーマは、のちの作品「トーニオ・クレーガー」にも、「ヴェニスに死す」にも見られる。しかし、マンの創作は、20世紀を代表する傑作小説とうたわれる「魔の山」(1924)で頂点をむかえる。33年にヒトラーが政権をとると、国外に亡命、初めはスイスに逃れ、ドイツ市民権を剥奪されると、38年アメリカに渡り、のちアメリカの市民権を得た。第二次世界大戦終結後、再びスイスに戻ってチューリヒに居を定め、そこで亡くなった。代表作は他に「ヨゼフとその兄弟」「ファウスト博士」など。

立ち読みフロア
  グスターフ・アッシェンバッハ……あるいは、その五十回目の誕生日このかた、公(おおやけ)によばれているとおりにいえば、フォン・アッシェンバッハは、一九××年……この年は、何か月もの間わたしたちの大陸にとって実に危険な様相をあらわした年であったが……の春のある午後、ミュンヘンのプリンツレゲンテン街の自宅から、ひとりでかなり遠方まで散歩に出かけた。
  ややこしく、極度の慎重さと周到さを必要とする危険な仕事の、精神を集中して細密にやらなければならない部分にさしかかった午前中の仕事で、ひどく興奮したこの作家は、体の奥にある生産的な連動機の決して止まることのない振動を……キケロにいわせれば、ほかでもない雄弁の本体であるあの「精神のひっきりなしの動き」を、昼食のあとでも止めることができなかった。また、気分を軽くしてくれる憩(いこ)いが見つからなかった。精力がますますおとろえているアッシェンバッハには日に一度はやらなければならなかったのだが、気分を軽くしてくれる昼寝ができなかった。そこでアッシェンバッハは茶を飲み終えてまもなく、空気と運動が元気をとりもどさせ、夕べを有効に過ごせるように助けてくれるかも知れないと望みながら外へ出た。
  五月のはじめだった。じめじめとしたうすら寒い何週間かが過ぎたかと思うと、だしぬけに季節はずれの真夏がやってきた。イギリス公園の若葉が、ついこのあいだ出はじめたばかりだというのに、まるで八月頃のようにむっとしていて、市のはずれは馬車やそぞろ歩きの人々でいっぱいだった。
  だんだんひっそりしていく通りから通りへと歩いていくうちに、料亭アウマイスターの店までくると、アッシェンバッハは、境界に数台の辻馬車や馬車が止まっていて大勢の人々でにぎわっているレストランの庭園をちょっとのあいだ見わたした。そこから沈みかけた夕日をあびて広々とした草原を通って公園の外の道を帰路につき、疲れたような気もしたし、フェーリングの上空に夕立がきそうなけはいでもあったので、北の墓地の停留所で、まっすぐ市中へ帰ることのできる市電を待っていた。
  たまたま停留所にも、そのまわりにも、人っ子ひとり見えなかった。レールがさびしく光って、シュワービングへのびている舖装したウンゲラー通りにも、フェーリンガー国道にも、乗り物ひとつ見えなかった。石屋の生け垣の向こうに、売り物の十字架や、記念の額(がく)や記念碑などが見え、第二の、まだ人を葬っていない仮墓地を形作っているのだが、そこにも、何ひとつ動くものはなかった。あちら側の斎場のビザンチン風の建物も、暮れようとする夕ばえの中にだまりこくっていた。

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