「毛皮を着たヴィーナス」

マゾッホ/小野武雄訳

ドットブック版 148KB/テキストファイル 73KB

400円

オーストリア生まれの歴史学者であり、同時に作家でもあったザッヘル・マゾッホ(1836〜95)の代表作。被虐的な異常性欲のあらわれを「マゾヒズム」と呼ぶが、この名称は彼の書いた多くの作品にみられるこうした傾向をさして名づけられた。豪華な毛皮の外套を着て、ムチを手にする妖しい女性、そのムチの洗礼を待ち望む男……本書は一種のセクシャル・ファンタジーでもある。
立ち読みフロア

 そのとき、ヴーナス夫人はとても色っぽかった。
 ルネサンス風のどっしりとした暖炉のそばの肘掛椅子に腰掛けていたが、彼女は、ヴィーナスという匿名で、競争相手のクレオパトラ嬢などにいどみかかる世間なみの気まぐれな女性などとはまったく違っていて、愛の女神そのものであった 。
 暖炉の火が音をたてて燃えあがるにつれて、その反射は赤い焔となって、彼女の青白い顔のうえを走った。彼女があたためようとしてさしのべた脚にも、赤々と照りはえた。
 彼女の目は動かず顔は無表情であったが、すばらしく美しかった。豪華な毛皮のなかに大理石のような肌の五体をすっぽりとつつんで、猫のようにふるえながらじっとうずくまっていた。
「どうも僕にはわからない」
とわたしはつぶやいてから、
「この二週間ばかり、陽気はすっかり春めいてきたのに、あなたは寒いなんて、ちょっと神経質すぎるんじゃないですか?」
「ご親切さま」
 彼女は石のようにかたく低い声で答えてから、二度ばかり、女神のようなしぐさで、くしゃみをした。それから、
「わたし、こんな土地にはもう、がまんできないわ。それに、わたしにも様子がわかってしまったから……」
「なにがですか?」
「わたし、信じられないようなことが信じられはじめたので、それでわからないようなことが、わかりはじめたのよ。つまり、ドイツ人の婦徳とか、哲学とかが、急にわかってきましたのよ。あなたのような北国の人が恋の仕方をご存じなくても、わたし、もうおどろかないわよ」
 わたしは内心、ちょっとむっとして、
「あなたから、そんなふうにいわれるとは――」
「まあ!」
 女神のような彼女は、三度目のくしゃみをして、それから、いともしとやかに肩をすくめて笑ってから、
「それだからこそ、わたし、いつもあなたのために、つくしてあげてきたのよ。こんな毛皮を着ていても、風邪ばかりひいているけど、ちょいちょい会いにきてあげているではないの。はじめてお会いしたときのことを、おぼえていらっしゃる?」
「忘れてなんかいるものですか。あなたは髪の毛を鳶《とび》色のカールにして、鳶色の目と紅の唇をしていました。リスの毛皮で縁どった紫がかった青いビロードのジャケットを着ていました」
「あなたは、わたしの衣装に恋したのね。ですからあなたって人は、わたしにはとても扱いやすかったわ」
「それであなたは、ボクに恋愛がどんなものかを教えてくれたのですね」
「わたしがあなたにつくしてあげた誠実は、なにものにもくらべようがなかったほどよ」
「それが誠実というものであったのなら」
「まァひどい、恩知らずの義理知らず」
「いや、ボクはあなたを責めているわけではありません。あなたはわたしの女神です。しかし女はやはり女ですから、恋愛には残酷ですね」
「その残酷というのはね……」
 と彼女は熱意をこめて、
「女性の愛情の根源で、女性のもって生まれた性質なのよ。愛する者には、自分の全部をあたえるし、喜ばしてくれるのもなら、なんでも愛するという自然の要素なのよ」
「愛する女性が不実、これ以上、男性にとって残酷なことはありません」
「わたしたちは、愛しているかぎりは決して心変わりなんかしないわ、それなのに男って変よ。愛していないのに女には貞節を要求するし、なんの喜びもあたえてくれないのに、身を捧げろ、身体を許せとおっしゃるのですもの。これではどちらが残酷でしょうか。女のほう、それとも男のほう? 北国のかたは恋をするのにもかた苦しく考えすぎるわね。たのしみだけを問題にしていればいいのに、すぐに義務がどうの、こうのというのね」
「それは、わたしたちの愛情が尊敬すべきもので、誠実なもので、わたしたちの関係が永遠のものだからですよ」
「そのくせいつも満足しないで、異教の裸像であるわたしを慕っていらっしゃるのね。神様の純粋な恋の最高の喜びは、反省の子供のような近代人のものではないわね。喜びの恋愛は、あなた方の心のなかでは、悪徳にだけ結びついているのだわね。あなた方の世界ではわたし、こごえてしまいますわ」
 美しい大理石の彼女は軽い咳をしてから、黒貂《てん》の毛皮を肩から首のまわりに引き寄せた。
「しかし男と女とは……」  とわたしは答えて、
「あなた方の明朗な太陽の輝く世界でも、ボクたちの霧が立ちこめる世界でも、仇同士ですよ。これだけは、いくらあなたでも否定できないでしょう。ほんの短い間だけならば、恋愛のなかで男と女は融合してひとつの人格ともなり、ひとつの思想、ひとつの感覚、ひとつの意志にもなれますが、そのあとでは前よりずっと遠くへ離れてしまいます。どちらかが相手を服従させそこなうと、たちまち足で首根っこをふみつけられます。それだからこそ、ボクは幻想なんか抱かないのです」
 するとヴィーナス夫人は傲然《ごうぜん》としたあざけりの調子で叫んだ。
「するとあなたは、なんの幻想も抱かないで、わたしの奴隷になっているわけね。いいわ、それならその意味で、これからはわたしは、容赦なくわたしの足の重みをあなたに十分感じさせてあげるわね」
「そんなバカなこと!」
「そうよ、わたし残酷よ、あなたはこの言葉をとても好んで喜んでいらっしゃいますからね。……どういうふうにして男を征服し、奴隷にし、おもちゃにし、笑いながら裏切ってやるか、それを知らない女性は利口じゃないわね」
「それは、あなただけの考えでしょう」
「何千年もの経験の結果よ」
 彼女は白い指で暗色の毛皮をもてあそびながら、皮肉にいった。そして言葉をつづけて、
「女が献身的になればなるほど、男はいよいよ落ちついて権威をふるうけど、女が残酷になって薄情になり、不実になって、手ひどく男を扱い、勝手気ままにほかの男たちとたわむれれば、それだけ男の欲望をそそり、男から愛され、崇拝されるものよ」
「たしかに」
 とわたしはいった。
「このうえもなく男をひきつけるのは、美しく情熱的で残酷で暴虐な女でしょう。移り気で平気で男をかえて気ままな恋をする女で……」
「そのうえ豪奢な毛皮を着ている女」
「それはどういう意味ですか?」
「あなたのお好みよ」
「あなたは、この前にあったときにくらべて、ずいぶん魅力的になりましたね」
「どこが?」
「あなたの白い肌のからだをひきたてるには、黒い毛皮以上に効果的なものはありません。それから……」
 わたしの言葉をさえぎって、女神のような彼女はホホホと笑ってから、叫ぶように、
「あなたは、夢を見ていらっしゃるのよ。さあ、お目をさまして!」
 といって、白い手でわたしの腕をぎゅっとつかみ、
「さあ、お目をさまして!」
 と低音のしゃがれ声でくり返した。

 わたしはハッとしてその手をみた。すると、それは白い手ではなくて赤銅色のゴツい手であった。耳に響いたのは、コサック生まれの酒のみの下男のドラ声であった。六尺豊かな大男の彼が、わたしの前にぬっくと立っているのだった。
「おきてくだせえ、旦那さま、みっともねえですよ」
「なにが?」
「外出着のまま、本をほうり出してねむっているなんて!」
 彼はローソクの芯《しん》を切り、わたしの手からすべり落ちた本をひろいあげた。そして本の題名を読んで、
「哲学者ヘーゲルの本か。それはとにかく、もうゼフェリンさまのお宅へ出かけねばならない時刻です。お茶の用意をして待っておられるそうですから」

「奇妙な夢ですなァ」
 ゼフェリンは、わたしの話を聞き終わると、膝の上に両肘をのせ、美しい血管のすいて見える手で頬杖をついて、深く考え込んでしまった。
 彼はガリシアの貴族で地主で、まだ三十を過ぎていなかったが、おどろくほどの節制とまじめさと、学者ぶりを身につけていた。そして自分の考えを時計のように正確に組み立てた哲学的で実際的な方法で、寒暖計か晴雨計のように生活してきた。しかしときどき彼は不意に激情の発作におそわれて、まったく無茶な振舞いをしてきた。
 彼が考え込んでいる間に、暖炉の煙突のなかでは火焔がうなり、大きな由緒深い湯わかしが蒸気の歌声をあげていた。わたしは葉巻をくゆらせながら、古い揺り椅子に腰かけていた。古い壁のなかではコオロギが鳴きつづけていた。 部屋の中には、珍しい道具や動物の骨格や鳥の剥製や地球儀や石膏の模型が、ところ狭く置いてあった。それらを見ていくうちに、わたしの目は一枚の絵に吸い寄せられてしまった。
 それはこれまでにも何度か見た絵だが、今日はいつもとは違って、暖炉の赤い火焔の反射で、わたしの心に異様な印象をあたえた。その絵の図柄は――
 一人の美しい女性がはればれしい表情でほほえみを浮かべ、豊かな髪の毛を古典的にたばね、白霜のような化粧用の髪粉をまぶし、寝椅子に左腕をかけてからだを支えてくつろいでいる。黒い毛皮を背景にして裸体である。右手では一本のムチをもてあそび、足もとに奴隷か犬のように身を横たえている男のからだのうえに片足を無造作にのせている。男のととのった顔には憂鬱の影と情熱と献身の色があらわれている。彼は殉教者のように法悦に燃える目つきで、じっと彼女を見あげている。その容姿は十年くらい前のゼフェリンの姿そっくりである。
 毛皮につつまれているヴィーナス! わたしはその絵を指さして、そう叫ぶとともに、
「ボクが夢のなかでみた彼女も、あんなふうでしたよ」
 と、そばのゼフェリンに言葉をかけた。すると彼も、
「そう、ぼくも見たのだ」
 と即座に応じてから、
「ただ君と違うのは、ぼくは目を開いたままあの夢を見たのさ」
「ほんとうですか?」
「そう、でもぼくのは、つまらない話さ」
「しかし、とにかくこの絵はボクの見た夢を暗示しているようだ。その絵の意味を説明してくれませんか。おそらく君の生涯で、あるひとつの大きな役割を演じていたんじゃないかね。決定的な役割をね?」
「それなら、こちらの複製画をみてくれ」
 彼はわたしの質問にはまったく注意を払わないかのように、別の絵を指さした。
それはドレスデン画廊にある有名な画家ティチアーノの「鏡のヴィーナス」と呼ばれる絵の写しであった。ゼフェリンは身を起こして、指先でその絵の愛の女神のからだに着せてある毛皮を示しながら、
「これも毛皮を着たヴィーナスさ」
 といって、かすかに笑った。
「ティチアーノは単に貴族のメサリーナの肖像を描いただけのことだろう」
 とわたしはいった。そして言葉をつづけて、
「ただ、うまい思いつきで、キューピッドに鏡を持たせ、その中に彼女の威厳ある魅力をうつして冷静な満足ぶりを示しているのだ。その絵には阿諛《あゆ》があるよ。美しいモデルが風邪をひくのをおそれて毛皮をまとっていたのだろうが、この暴君のような毛皮が、いまでは女性の本質と美になっている暴虐と残酷のシンボルにされているにすぎない」
「もういい。いまではその絵は、われわれの愛欲に対する辛辣な諷刺さ。北国のヴィーナスは、風邪をひかないために大きな黒い毛皮のなかにつつまれねばならないのさ」
 ゼフェリンは笑いながら、葉巻に火をつけた。
 そのときドアが開いて、魅力たっぷりの小肥りの金髪の乙女がはいってきた。利口で親切そうな目つきをしていて、黒い絹の服を着ていた。そして冷肉と卵を盛った皿にお茶をそえて、わたしたちの前に出した。ゼフェリンは卵をひとつ取ってナイフで切ると、いきなり猛烈な調子で、
「卵はもっとやわらかく煮るものだと、いっておいたじゃないか!」
 と、どなりつけた。
 金髪の乙女はふるえあがった。
「でもゼフチュさまが………」
「あいつがなんといおうと、どうでもいい。おまえは、いいつけられたとおりにすればいいのだ。わかったか!」
 彼は壁にかけてある刀のそばの長いムチを、ぐいとひっぱってはずし取るとびゅんと振った。 金髪の乙女はおじけづいて、牝鹿のような早さでさっと身をひるがえして部屋から逃げ出した。
「まて! ひっとらえてやる!」
「ゼフェリン君、まてよ。なんだって君は、あんな可憐な娘をそんなにいじめつけるんだい」
 わたしは彼の腕を押さえた。すると彼はおどけた調子で、
「甘やかしておくと、おれの首のまわりに愛の輪縄をなげかけてくるにきまっているんだ。おれがこの長いムチできびしく仕込んでいるからこそ、おれをあがめているのさ」
「バカバカしい!」
「君だって、女を馴らすにはこれよりほかにないよ」
「そうかね。君がそのつもりならそれでもいいが、ボクにまでその理屈を押しつけるのはごめんだね」
「どうして? ゲーテもいっているじゃないか、ハンマーにならなければ、カナシキになるってね。男と女の関係はそんなものだ。君が夢に見たヴィーナス夫人も、そのとおりだと証言してくれなかったかね? 女は男の情欲のなかに自分の足場を持っているのだよ。男がそれを承知していないと、女はかならずその力をふるいだすからね。男は女にたいしては、暴君になるか、奴隷になるか、ふたつにひとつだ。男が服従すれば首にクビキをかけられ、ムチをふるわれるばかりさ」
「奇妙な原理だね」
「原理ではなくて経験さ。ぼくはそのムチの威力を味わって知っている。いまでは、もうそうではなくなっているがね。しかし、知りたければ教えてやるよ」
 彼はそういって、大机の引出しから一束の原稿をとり出し、わたしの前にずしんと置いて、
「これを読んでみたまえ」
 そして彼は暖炉のそばに行って椅子に腰をおろすと、瞑想にふけった。
 わたしは原稿をめくりはじめた……。

……冒頭より

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