「闇からの声」

フィルポッツ/井内雄四郎訳

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500円

引退した名刑事リングローズは、彼に恩義を感じている知り合いのホテルの主人に招かれて、イギリスの田舎のホテルに滞在することになった。その第一夜のことである。闇をつんざく幼児の恐怖にかられた悲鳴が聞えたのは。だが、同宿の老婦人によれば、その子は以前に亡くなって、いまはいないはずだという……その背後には、恐るべき罠が忍びよっていた。悪の天才との息詰まる闘争を中心のすえたフィルポッツの代表作。

イーデン・フィルポッツ(英、1862〜1960)インド生まれ。軍人の父親の死後本国にもどり、プリマスで育つ。17歳のとき保険会社に就職、同時に創作に手をそめ、のち週刊誌の編集部員に。ダートムア地方を舞台にした小説で名をあげたあと、ミステリーに転じた。本書と江戸川乱歩激賞の「赤毛のレッドメーン家」が代表作。

立ち読みフロア
 オールド・マナー・ハウス・ホテルは、海抜六百フィートの南向きの高台に立っていた。背後には休耕地と森からなる尾根がつらなり、海へと下ってゆく斜面には農場が点在し、下の谷には小川が流れていた。谷の向うで海岸線はまた隆起して、広々とした不規則な一連の砂丘となり、低い海綿色の断崖《だんがい》が海にのぞんでいた。真南にはイギリス海峡が、東にはチェジル砂州が走り、ポートランド岬のどっしりした丘が、雲のようにもうろうと冬の海を圧していた。
 ホテルは淋《さび》しい吹きさらしの地域の、とある道路の交叉点《こうさてん》にあり、それでやっていけるのも、ハンターや近隣の常客があるからだった。客は外の共有地に猟犬《りょうけん》が集まる頃やって来るのだが、一泊か二泊以上滞在する者はまずいなかった。十一月のある夕方、近くのブリッドポートという市《いち》の立つ町から一台の車がやって来て、ホテルの玄関に横づけになり、ひとりの旅人が広い石だたみのポーチに降り立った。ホテルの建物は中央部にしか二階がついていなかった。そして平屋は東西に細長く翼のように伸びていた。裏側には、中庭、馬の放し飼い場、厩舎《うまや》その他の納屋がかたまっていた。ジョン・リングローズは地面に飛び降りると、旅行鞄《かばん》と猟銃ケースを車からひき出し、それからベルを押した。なかで重苦しい音が鳴り響いた。
 リングローズは痩《や》せぎすで活動的な体格と動作をした、五十五歳になるきびきびした男だった。ひげのない顔は、にこやかでやさしそうな表情が魅力的で、鋭い眼にはユーモアのひらめきがうかがわれた。これまでのきびしい人生にもかかわらず、彼はユーモアを失ってはいなかった。もっとも、彼の経歴を知る者は、そういう生活のなかで、どうしてこういうおだやかな態度が生まれたのかと愚かにも感心したりしたものだ。しかし、リングローズはいつもヒューマニストであり、これまでの人生経験も天与のその性格を変える力を持たなかった。
 リングローズは大きな格子縞《こうしじま》のノーフォーク・ジャケツにニッカーボッカをはき、針金《はりがね》のような脚《あし》にはウーステッドの靴下《くつした》をはいていた。短く刈った半白の頭にはハンチングをかぶり、ダークブラウンの、先の四角ばった頑丈《がんじょう》そうな皮靴をはいていた。彼は今鼻をねじって――これは無意識にやるちょっとした癖だった――なじみのある風景を見渡した。ドーセット〔イングランド南部の州〕の高原地方にはよく来るが、オールド・マナー・ハウス・ホテルに泊まったことはこれまで一度もない。ここに来たのはホテルの主人の招きによるものだった。主人のジェイコブ・ブレントは去年彼に口ではいいあらわせないほど世話になったのだ。
 今やブレントは玄関にあらわれ、リングローズを迎えていかにもうれしそうだった。彼は太った大男で、自分でもいつもいうとおり、あまり太りすぎて急ぐことも、苛立《いらだ》つこともできなかった。顔の下半分は白い顎《あご》ひげにおおわれ、広いおだやかな額《ひたい》と赤くなりかけた大きな鼻がその上から覗《のぞ》いていた。眼は大きくて、灰色で、鉄ぶちの眼鏡の奥でまたたいていた。巨大な肩は肉で丸味をおび、大頭の重みで幾分背中が曲っていた。もしまっすぐ背中を伸ばすことができたなら、きっと六フィート四インチはあったろう。じっさい猫背《ねこぜ》にもかかわらず、彼は五フィート八インチそこそこのリングローズと並ぶと、そびえんばかりだった。
 心からの歓迎の言葉がすむと、すぐにリングローズは赤々と暖炉の燃える一室に通された。部屋はホテルの左の棟《むね》にあり、廊下を通って出入りするようになっていた。
 リングローズは自分が泊まる所なら、どこでも正確に様子を知っておく習慣があった。「はじめてのベッドで意識を失うわけだから、できるだけまわりの様子をくわしく知っておきたいと思ってね」といつもいっていた。
 今この部屋でわかったのは、窓が表の公道から五フィートのところにあり、あいだには小さな芝生と柵《さく》があるだけだということだった。窓はざらにある四角い窓で、普通のかんぬきがかかっていた。この窓に向って入口のドアがあり、廊下《ろうか》はそこで終っていた。だから部屋は東の棟の先端にあるわけで、三方が表に面していた。ただ一つ内側に面した壁が、リングローズの部屋と同じく廊下に面した隣室を仕切っていた。外に面した壁に暖炉があり、これから二週間、リングローズが眠ることになるこの四角い部屋には、彼の関心を惹《ひ》くような特徴はなにもなかった。厚手のカーテンが窓にひいてあり、白いブラインドがおりていた。化粧台の上方の電灯が室内を照らしていた。
 リングローズは旅行鞄を開け、衣類を箪笥《たんす》にしまった。それから壁の吊戸棚《つりとだな》に気がついて、上着をそこにつるした。弾薬・猟銃ケース、狩猟用のゲートル、長靴は下のほうに入れた。こんな準備をしてきたのは、宿の主人の約束してくれたとおり野山で存分に猟をしたいからだった。
 やがて、彼は数冊の本や文箱や皮の書見台を窓ぎわの机に置き、暖炉の火には金網をかぶせて、主人がお茶を用意して待っている私室へ足を運んだ。
 主人のブレントはやもめで、ヨーヴィル〔サマーセット州の町。ドーセット州に近い〕の私立銀行につとめているひとり息子がいた。この青年はかつて重大な容疑で告発され、リングローズのおかげで疑いが晴れたのだ。青年は無類の正直者だったが、二人の極悪人にあやつられていた。彼らは今は刑に服しており、青年はリングローズの機敏な働きで、完全に無罪になった。父親は言葉ではいいあらわせないほど感謝して、いつでも好きなだけ泊まってくれとかねてからリングローズを招待していた。で、今リングローズはすばらしい中国茶を飲みながら、いつもの正確な話し方で自分の計画をこう明らかにしたわけだ。
「わたしはいつもここに来たいと思っていましたよ、ブレントさん。こういうすてきな所で狩りを楽しむチャンスをふいにしたくはないからね。しかし、まず今の身の上からお話しなくちゃいかん。じつは隠退したのだよ。まだやめたくはなかったが。しかし、わたしは欲張りではないし、少しは仕事もした。それに、あとに残る者たちの腕を全面的に信頼してもいる。で、勇退を申し出たというわけだ。しかし、いつも何かやっていないといられない性分だから、仕事のつもりで本でも書こうと思ってね」
「あなたなら、なんだってできますよ」とブレントはうけあった。
「そう思えるといいんだが。とにかく、そんな考えを吹きこんだのは、総監でね。『きみは絶対にブラブラできる性質《たち》じゃない、リングローズ』サー・ジェイムズ・リッジウェイはいわれたよ。『わしはスコットランド・ヤード時代の想い出を書きはじめたばかりだが、どうかね、わしを見習っては。きみの書く本のほうが、わしのよりはるかに波瀾万丈《はらんばんじょう》だと思うがね』たしかに、わたしはもう警察をやめた人間だし、おもしろいネタもいっぱいある。センセーション、犯罪、謎《なぞ》、それに人間性の明るい面とネタにはこと欠かない。そこで、それをまとめてみようというわけさ。本にする計画はできたのだが、仕上げに使えるようなすばらしい事件がもう一つあるといいんだが……。しかし、もう仕事を離れた身だから、手持ちのネタでベストをつくすほかはない」
「とんでもない、リングローズさん。本の十冊くらいすぐ書けそうなほど、恐ろしい事件をいっぱい手掛けてこられたじゃありませんか」
「わたしの書き方ではそうもいくまい。どんな事件でも煮つめれば、すぐに骨だけになってしまうものだ。それに、わたしは仕事の上でも無駄口《むだぐち》はきかん主義だった。本を書くときでも、できるだけそうしようと思ってね、ブレントさん。そこで、本題に入るとして、あんたはわたしを二週間招待してくれた。で、もしその二週間が終って、この場所が気に入ったら、さらに数か月滞在を申し出たいと思うんだ。ときどき狩りを楽しんで、もっぱら執筆に時間を使ってね。ご都合はどうだろう、ブレントさん?」
「それはもう喜んで」と主人は叫んだ。「いっさい無条件で、ということにしましょう。半年分のホテル代をただにしても追いつかないくらいお世話になったんですから、リングローズさん。それに、あなたみたいな偉い方をお迎えできるのは、お金以上に価値があるんです。わたしは無智な人間ですが、人が教えてくれようとするときは、いつでも教わる気持はありますよ」
「ほかには、どういう人が泊まっているのかな?」
「長期滞在の方《かた》がおひとりだけですよ。ベレアズ夫人という方で、愛すべきおばあさんですよ。中風にかかっておられて、最近では、わたしどものホテルが自宅がわりというわけでして。身の回りの世話をするミス・マンリーといっしょに、もう二年ごしの滞在で、ここを死に場所ときめておられる様子です。ときどき古くからのお友だちが見えることもありますが、とても淋しそうにお見受けします。なんと申しても非常なお年で、同時代の方はみなとっくに亡くなっているんですからね。ここにいらしたのはロマンチックな気持からなのです。お話によると、五十年前、わたしのおやじの時代に、ここに新婚旅行にいらしたそうで、それでここが気に入ってしまわれて……。はじめ数週間のつもりで保養にいらしたのに、結局ここが死に場所ということになりました。そのほうが好都合だということですが、こっちもありがたいのです。もう八十四だというのに、とても明るい活溌《かっぱつ》な方ですから」
 リングローズはうなずいた。「古い世代のおばあさんには、ウィットにあふれた人がときどきいるもんだよ」と彼はいった。「わたしの母もそうだった。すばらしい記憶力で、ユーモアのセンスがあって、他人のあやまちにとても寛大で……。ユーモアのセンスのある人は、だいたいそうだがね」
 その夜、食堂でリングローズはベレアズ夫人に出会った。彼女は、勝気らしい感受性のするどそうな顔、今なお輝きを失わない青い眼をした美しい上品な老婆だった。レースのいっぱいついた紫色のガウンを羽織り、高価なものらしいダイヤのブローチをつけ、雪のような白髪の上にかぶっている粋《いき》な帽子には、レースで囲まれた紫色のリボンがついていた。年老いて痩《や》せほそった手はまだ美しさをとどめており、話をするときはのびのびとその手を動かした。しかし脚は《麻痺《まひ》麻痺《まひ》していて、人前では絶対に車椅子から離れなかった。
 彼女が附添い婦に車椅子を押させて食堂へ入って来たとき、リングローズは椅子から立ち上がって挨拶《あいさつ》した。附添い婦も主人とほぼ同じ年に見えた。陽焼けした顔の、しなびた小柄な老婆で、背筋はまだしゃんとしており、聡明《そうめい》で気立のよさが顔にうかがわれた。物の言い方もきちんとしていたが、もっぱら聴き役にまわっていた。というのも女主人が話し好きだったからである。リングローズは、いつも夜は黒のフロックコートを着ることにしていたが、この同宿の客には好感を持った。じっさい、ベレアズ夫人は気持のいい、暖かみのある老人だった。頭もよく切れ、ひろく世情にも通じているふうだった。自分は小食だったが、夕食がすむと、たずさえてきたぶどう酒をリングローズにすすめてくれたりした。
「夕食後は一時間ほど応接間にすわって、たいていスーザンに本を読んでもらうんですよ」とベレアズ夫人はいった。「でも、わたしたちのお相手になってくださるのなら、本はやめて、おしゃべりいたしましょう。わたし、お昼までは食堂に出てまいりません。部屋は西の棟にあるんです。いつか遊びにいらしてください。煙草《たばこ》をふかしたり、きれいな景色を眺《なが》めたりしに」
「煙草を吸ってもいいんですか?」とリングローズはたずねた。
「ええ、むろんです。わたしだって、今でもときどき吸いますわ」
 リングローズは、自分がかつて有名な刑事だったことは絶対口外しないように、宿の主人にいいつけてあったので、ベレアズ夫人主従は、そのことはなにも知らないはずだった。だから、先方から望むのなら、このつきあいは本物になりそうだと思った。
 彼は一時間ばかりベレアズ夫人としゃべってから、バーに引き返し、いつも一杯だけときめているウイスキーの水割りを飲み、早目に寝室に引きあげることにした。五分ほど玄関にひとり突っ立って、戸外を眺めたが、荒れ模様で、雨が降っており、近寄りがたい夜だった。風の合間に、二マイル先の断崖にうちよせる波の音が聞え、東のほうの闇《やみ》の中に、遠くの灯台のかすかな一条の光がポートランド岬の背後から延びるのが見えた。この宿屋は一番近くの人家からさえ遠く離れていたので、バーに集まっていた男たちも、まもなく帰ってしまった。リングローズの寝室は、暖炉があかあかと燃え、見るからに居心地がよさそうだった。電灯だけは替える必要がある、と彼は思った。机の上にスタンドを置くことにしよう。これからは夜原稿を書かなくてはいけないのだから。
 リングローズはすばやく寝間着に着替え、羽根ぶとんにもぐりこんでみて、ベッドも数か所直す必要があるのに気がついた。彼は堅いベッドを好むたちだった。しかし、すぐに眠ってしまい、しかもぐっすり眠ってしまった。
 やがて、彼は室内の人声で眼がさめた。この隠退した刑事以上によく眠る者でさえ、きっとこの人声では眼をさまさせられたにちがいない。それは、苦悶《くもん》にみちた、かん高い、引き裂かれるような調子なのだった。子供が恐怖と苦痛のあまり叫んでいるのである。独身ではあるが、大の子供好きのリングローズは憤慨し床《とこ》に起き上がり、気も狂わんばかりのその訴えをすべて耳に聞きとった。
「お願い、お願い。いい子になるから、いい子になるから、ビットンさん! そいつをぼくに見せないで! そいつをそばに来させないで!ねえ、お願い、お願いだから!」
 その言葉も、恐怖に狂わんばかりの子供らしい叫び声にくらべれば、取るにたりなかった。やがて、その叫び声はよわよわしい恐怖のすすり泣きに変ったが、リングローズは聴いているうちに烈《はげ》しい怒りに駆られ、すっかりねむ気がさめてしまった。子供の最後のうめき声と、彼がベッドの脇の壁のボタンを押してパッと電気をつけるまでのあいだには、二秒とかからなかった。しかし室内にはだれもいなかった。リングローズは戸口に飛んで行き、ドアを開けたが、外の暗い廊下にも、だれも認められなかった。そこで窓辺に駆け寄ったが、カーテンはちゃんとひいたままで、掛金もかかっていた。室内にはどこも隠れ場所はなく、小さな子供でも隠れられそうな戸棚があるばかり。そこも覗《のぞ》いてみたが、自分の衣類があるだけだった。
 時計を見ると、三時だった。暖炉の火はすでに消えており、静寂の中で、この部屋のある古い建物のまわりで、烈しく風の吹き荒れる音が聞えてきた。それから、外の道路で馬の重い足音がした。家畜がよくやるように、馬たちがひとりで夜歩きまわっているのである。彼はブラインドを上げ、外を眺めた。二頭の黒い、大きな馬車馬が歩いていた。一頭がいななき、つれのいったことを笑ったようだった。窓の明りが人気のない道路にさっとさしたので、馬たちはびっくりして、重い足音で駆けて行ってしまった。風が馬たちを追って叫び声をあげ、雨が降りだした。
 リングローズはブラインドをおろし、ガウンを着て、廊下に出た。そして携えてきた懐中電灯であたりを調べた。しかし、家中は静まりかえって、闇と眠りにひたされていた。隣の部屋からも、なんのささやきも息づかいも聞えてこなかった。把手《とって》をまわすと、ドアは開いた。その部屋も、彼の部屋と同じ造りになっていたが、中にはだれもいなかった。ベッドに掛けられた埃《ほこり》よけの布を持ち上げてみたが、下には敷ぶとんがあるばかりだった。吊戸棚のドアをさっと開いてみたが、そこも空っぽだった。彼は自室に戻《もど》り、先ほどの言葉をくりかえしてみた。
「お願い、お願い。いい子になるから、いい子になるから、ビットンさん! そいつをぼくに見せないで! そいつをそばに来させないで! ねえ、お願い、お願いだから!」
 リングローズはその言葉を書きとめた。それから、ガウンを脱ぎ、ドアに鍵《かぎ》をかけ、電灯を消し、ベッドに戻った。半時間ばかり耳を澄ませて横たわっていたが、なんの音も聞えなかった。やがて、彼は眠ってしまい、朝女中に起されるまで眼をさまさなかった。

……「
第一章 幽霊」の冒頭より

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