「ヴォスパー号の喪失」

フリーマン・ウィルス・クロフツ/鈴木幸夫訳

ドットブック 267KB/テキストファイル 212KB

600円

ロンドン・ブエノスアイレス間を就航する貨物船ジェイン・ヴォスパー号が、謎の爆発によって沈没した。海事裁判が開かれ、原因と責任の所在が追及されるが、真相は謎であった。船と積荷には保険がかけられていた。積荷の保険会社は私立探偵サットンに依頼し、保険金詐欺の確証を得ようとするが、サットンは無惨にも殺害される。捜査に乗り出したスコットランド・ヤードのフレンチ警部は、積荷のからくりとサットン殺害の秘密を追う。クロフツ作品におなじみのフレンチ警部の周到な捜査手法と、複雑な事件の背景が、読者の興味を最後までひきつけて放さない。

クロフツ(1879〜1957) イギリスのミステリー黄金時代を代表する巨匠のひとり。犯人の堅牢なアリバイをくつがえす「アリバイ崩し」の作風がとくに有名。デビュー作の「樽」はクリスティの「スタイルズ荘の怪事件」と同年に刊行され、黄金時代の幕をあけた。アイルランドのダブリン生まれ。17歳のとき鉄道会社にはいり、以後1929年に作家としてひとり立ちするまで鉄道技師として勤務、ミステリーを書き始めたのは40代になってからだった。なかでも「足の探偵」フレンチ警部ものが人気を博した。

立ち読みフロア
第一章 海の冒険

 S・S・ジェイン・ヴォスパー号の船長、ジェイムズ・ハッセルは、寝台で眠れないまま横になっていた。十時少し前に床(とこ)についたのだが、もう朝方の四時になろうというのに、まだ目がふさがってはいなかった。
 眠りつけなかったのは船が動いているせいではなかった。揺れは、かなりのものではあったにせよ、これまでにもっとひどい揺れは幾度もあったのだ。きりもみのような横揺れで、寝台の一方からまた片側へと押しやられることにも馴れっこだった。頭とかかとが時として交互に持ち上げられたり、防水服やそのほか、かけてあるものが、三十度の弧を描いて前後に揺れるのを見るのも珍らしいことではなかった。風のうなりや船体にぶつかる波の衝撃で、眠れないのでもなかった。全強風か、さらにそれより悪い時でなければ、そういう風や波の音を意識したこともなかった。なにしろ長年そういう音を聞いて来たのだから。そしていま、外は全強風というような風でもないのに……。たしかに荒れ模様ではあるが、それ以上のものではなかった。
 ハッセル船長の苦しみは外からのものではなく、内からだった。彼は憂欝(ゆううつ)症に襲われて苦しんでいるのだった。憂欝と不吉な予感が彼にとりついてしまった。現在というものが空虚で空(むな)しいものに思われ、未来はぼんやりとしてはいるが、避けることのできない災害をはらんでいる暗黒みたいに思われるのだった。ずっと昔、あのシナ海で今にも波にのまれそうになった嵐の夜以来感じたことのない不吉な予感を覚えて、彼はぞっとした。しかし、ハッセルは物質主義者であったから、こんな暗い空想が自分の心を不当に重くするのを認めようとはしなかった。彼は悪い予感など軽蔑し、超自然的なものの力など信じようとはしなかったのである。彼はむしろ夕食のことを思い出して、コックこそ自分の悩みの真の原因であるのだと、心の中でいまいましく思っていた。
 しかし、それが消化の悪さからくるものであっても、またそうでなくても、こんなに眠れないことは今までになかった。彼は寝台の上をころげまわるのにうんざりしてしまった。起きた方がいいだろう。ブリッジへ一、二時間出てみて、眠くなったらまた戻ってこよう。
 彼は灯りをつけて寝台の端に坐り、洋服を手探(てさぐ)りしながら船室の中を見まわした。ジェイン・ヴォスパー号の建造年令と大きさから考えて、この部屋は小さいが居心地は悪くない。事実、彼はここにやさしい愛情みたいなものを感じていた。メアリー・クレイトン号から移籍してもう八年、彼はここで生活しているのだった。そしておそらく、海の生活を終える時までここで生活することになるだろう。

……冒頭より

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