「私の個人主義」…漱石講演集

夏目漱石著

ドットブック版 143KB/テキストファイル 95KB

300円

漱石は、座談や講演の名手として定評があった。身近なことがらを糸口に、深い識見や主張を盛り込み、やがて独創的な思想を展開する。その語り口は機知と諧謔に富み、聴く者を決してあきさせない。本書に収めた五つの講演も、そのような魅力にあふれたものばかりである。漱石の根本思想である近代個人主義の考え方を論じた「私の個人主義」、先見に富む優れた文明批評「現代日本の開化」、他に「道楽と職業」「中味と形式」「文芸と道徳」を収録した。

夏目漱石(1867〜1916) 東京生まれ。東京帝国大学英文科卒業後、松山中学、五高などを経て、イギリスへ留学。帰国後、東大講師を務めながら「坊っちゃん」「吾輩は猫である」などの作品を発表して注目された。朝日新聞社入社後は本格的に職業作家としての道を歩み始めるが、晩年は胃潰瘍と糖尿病に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。近代日本文学の代表者。

立ち読みフロア
 ただいまは牧君の満洲問題――満洲の過去と満洲の未来というような問題について、大変条理の明かな、そうして秩序のよい演説がありました。そこで牧君の披露に依ると、そのあとへ出る私は一段と面白い話をするというようになっているが、なかなか牧君のように旨(うま)くできませぬ。ことに秩序が無かろうと思う。ただいま本社の人が明日の新聞に出すんだから、講演の梗概(こうがい)を二十行ばかりにつづめて書けという注文でしたが、それは書けないと言って断ったくらいです。それじゃアしゃべらないかというと、現にこうやってしゃべりつつある。しゃべる事はあるのですが、秩序とか何とかいう事が、ハッキリ句切(くぎ)りがついて頭に畳み込んでありませぬから、あるいは前後したり、混雑したり、いろいろお聴きにくいところがあるだろうと思います。ことにあなた方の頭も大分労(つか)れておいででしょうから、まずなるべく短かく申そうと思う。
 私の申すのは少しもむずかしいことではありません。満洲とか安南とかいう対外問題とは違って極(ごく)やさしい「道楽と職業」という至極(しごく)簡単なみだしです。内容も従って簡単なものであります。まあそれをちょっとわずかばかり御話をしようと思う。
 元来こんな所へ来て講演をしようなどとは全く思いもよらぬことでありましたが、「是非出て来い」とこういう訳で、それでは何か問題を考えなければならぬからその問題を考える時間を与えてくれと言いましたら、社の方では宜(よろ)しいと云って相応の日子(にっし)を与えてくれました。ですから考えて来ないということも言えず、出て来ないということも無論言えず、それでとうとうここへ現われる事になりました。けれども明石(あかし)という所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまでも知りませんでした。どうしてああいう所で講演会を開くつもりか、ちょっとその意を得るに苦しんだくらいであります。ところが来て見ると非常に大きな建物があって、あそこで講演をやるのだと人から教えられて始めてもっともだと思いました。なるほどあれほどの建物を造ればその中で講演をする人をどこからか呼ばなければいわゆる宝の持腐れになるばかりでありましょう。したがって西日がカンカン照って暑くはあるが、せっかくの建物に対しても、あなた方は来て見る必要があり、また我々は講演をする義務があるとでも言おうか、まアあるものとしてこの壇上に立った訳である。
 そこで「道楽と職業」という題。道楽と云いますと、悪い意味に取るとお酒を飲んだり、または何か花柳社会へ入ったりする、俗に道楽息子と云いますね、ああいう息子のする仕業(しわざ)、それを形容して道楽という。けれども私のここで云う道楽は、そんな狭い意味で使うのではない、もう少し広く応用の利(き)く道楽である。善(よ)い意味、善い意味の道楽という字が使えるか使えないか、それは知りませぬが、だんだん話して行く中(うち)に分るだろうと思う。もし使えなかったら悪い意味にすればそれでよいのであります。
 道楽と職業、一方に道楽という字を置いて、一方に職業という字を置いたのは、ちょうど東と西というようなもので、南北あるいは水火、つまり道楽と職業が相闘うところを話そうと、こういう訳である。すなわち道楽と職業というものは、どういうように関係して、どういうように食い違っているかということをまず話して――もっともその道楽も職業も、すでに御承知のあなた方にそういう事を言う必要もなし、私も強(し)いてやりたくはないが、しかし前(ぜん)申したような訳でわざわざ出て来たものだから、そこはあなた方にすでに御分りになっている程度以上に、一歩でももう少し明かに分らせることが、私の力でできればそれで私の役目は済んだものと内々たかを括(くく)っているのであります。
 

……「道楽と職業」冒頭より


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