「波」

ヴァージニア・ウルフ/鈴木幸夫訳

ドットブック 263KB/テキストファイル 233KB

600円

たまたま子供時代を一緒にすごした男3人、女3人からなる6人の人物の、人生行路をなぞる作品。しかし全編が登場人物のモノローグから構成され、それぞれの人物は一緒にいながら、そこには普通の「会話」はない。一人ずつが舞台の前に出てきて、いわば「一人がたり」をおこなう。不思議な時間と空間ができ、不思議な交響楽がいつのまにか鳴り響いてくる。ウルフの前衛性の到達点をあかしする代表作のひとつ。

ヴァージニア・ウルフ(1882〜1941) ロンドン生まれの作家、批評家。「意識の流れ」を重んじる新しい文学の試みに果敢に挑戦、「ダロウェイ夫人」「燈台へ」「波」でそれを完成させた。彼女の自宅は作家のE・M・フォスター、経済学者ケインズをはじめ当時の著名な作家・学者・芸術家のつどう場の一つとなり、彼らはブルームズベリ・グループと呼ばれた。

立ち読みフロア

 陽はまだ昇ってはいなかった。海と空とのけじめはさだかでなく、ただ海には布の皺のように小波が微かにたゆとうばかり、やがて空の白むにつれて、水平線は黒い一筋となって横たわり、海と空とを分け隔てた。銀布の海には一面に色濃い横波が立ち、つぎつぎと水面を揺れ動いては、後から後からと追いすがり、追いつ追われつ不断につづいた。
 渚に寄せて近づくとみれば、うねりは高まり、高く盛り上っては砕け、砂の上へ遠く白地の薄紗を打ちひろげた。波はとぎれてはまた打ち寄せ、無意識に呼吸する眠り人のように溜息をついた。徐々に水平線の暗い一筋は薄れて、古い酒罎の澱《おり》が沈んでガラスを緑色にもどすように、澄んで冴えわたった。背後の空もまた、白い澱が沈んでしまったかのように、さては水平線の下に臥せっていた女人の腕が灯火をさしかざしたかのように、すっかりと晴れわたり、白や緑や黄色のおぼろな縞《しま》が扇を開いたように空一面に拡がった。女人はさらに高く灯火をかざした。空一面は光の条に覆われたように見え、炬火《たいまつ》から燃えさかる燻《くすぶ》った炎のように赤や黄の光となってちらちらと燃えながら、緑の水面から裂かれ去るかとも思われた。しだいに燃えさかる炬火の光芒は溶けて霞となり、白光となり、羊毛にも似て重々しくのしかかっていた灰色の空を晴れ上らせ、それを無数の柔かな青い微塵と変えた。海の面《おも》は徐々に澄みわたり、小波をたたえてきらきらと光り、やがては黒ずんだ横縞もほとんど擦れ失せてしまった。灯火をかざした腕がゆるやかにさらにさらに高く上げられると、ついには大きな火炎が見えはじめた。弧をなす炎は水平線の面上に燃えて、そのあたり一面、海は金色に燃え立った。
 日光は庭の木々に映え、木の葉を一つまた一つと色を透かしていった。鳥が一羽、高みでさえずった。ちょっと途絶えて、また一羽が低く。太陽は家の壁に照りつけて、白いブラインドの上に扇に似た影を投げ、寝室の窓際では木の葉の下にも青い影の指紋を落した。ブラインドが微かにそよいだが、室内のすべては漠としておぼろに霞んでいるばかりだった。戸外では小鳥たちがひたむきに歌った。

 *

「環が見える」バーナードは言った。「僕の上の方にかかっているのが。光の輪暈《わがさ》になって、揺れながらかかっている」
「薄黄色いひら板が見えるわ」スーザンが言った。「ずっとひろがって向うで深紅の縞と一緒になってるわ」
「音が聞えるわ」ローダが言った。「ちーちく、ぴーちく、ちーちく、ぴーちく。上へ行ったり、下へ行ったり」
「球が見えるよ」ネヴィルが言った。「どこかの丘の巨きな横腹に滴りになって垂れ下ってら」
「真赤な房が見えるわ」ジニーが言った。「金の糸で綯《な》われてるの」
「なんだか足音がする」ルイスが言った。「大きな獣が足を繋がれてるんだ。ずしり、ずしり、ずしり」
「見てごらん、蜘蛛の巣を、バルコニーの隅の」バーナードが言った。「水が数珠玉になって、粒が白く光ってるよ」
「木の葉が窓のぐるりに集まって、尖った耳みたい」スーザンが言った。

……冒頭より

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