「蝋人形館の殺人」

ジョン・ディクスン・カー/妹尾韶夫訳

ドットブック版 350KB/テキストファイル 159KB

600円

オーギュスト陳列館には数々の蝋人形たちが並び、薄暗い照明の中で異様な雰囲気をかもし出していた。ギロチンの下でのけぞるルイ16世、臨終のナポレオン……中でも傑作中の傑作『人殺しのルシャール夫人』の出来栄えは見事だった。その蝋人形がある娘の後を追って暗い階段を降りてゆき、そのあと、その娘が、屍体となってセーヌ河に浮かぶという事件がおきる! 怪奇趣味 横溢したカーならではの初期作品。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。代表作「火刑法廷」「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「三つの棺」など。

立ち読みフロア
 バンコランは燕尾服を着ていなかった。だから世の中は平和なのだ、とみんなが解釈した。
 というのは、モンマルトルからブールヴァール・ドラシャペーユにかけての夜のさかり場を泳ぐ連中の間に、このおしゃれのパリ警視庁の探偵について、妙な噂がひろがっているからなのである。いったいパリの人たちは、たとえそれが悪人であろうと、自分を追っかけまわす探偵が、おしゃれであってくれることを希望する。フォンテーヌ街に近づくにつれてぼつぼつ現われる夜の盛り場や、ポルト・サンマルタン付近に散らばるうさんくさい場所に、このバンコランはよく出没した。彼は聖アンタンヌ街の左がわや、外来者のあまり耳にしたことのない場末の、もうもうと煙草の煙の立ちこめるいかがわしい場所で、むせび泣くタンゴミュージックに耳を傾けながら、ビールを飲むことさえまれでなかった。彼自身そんな場所をうろつくのが好きだといっている。彼は赤や青の電燈のともった、薄暗い隅っこのテーブルに、人目につかぬように坐って、ビールのグラスを傾けながら、できるだけ喧(やかま)しいジャズ音楽をきき、メフィストフェレスみたいに眉をひん曲げて、夢のような瞑想にふけるのがなにより好きなのだ。だが人目につかぬようにというのは、残念ながら当たっていない。なぜというに、彼の存在はジャズ音楽の存在よりも、もっと人目につくからである。ただ、彼は話をしない。そしてにやにや笑いながら、夜っぴて葉巻をふかす。
 ところで、妙な噂というのはほかでもないが、彼がこんな場合に普通の背広を着ていると、ただ個人的な気晴しのためにやって来たというのである。だからいかがわしいカフェの亭主は、彼の背広を見ると、うやうやしく近より、ぺちゃぺちゃ喋りながら、たいていシャンパンを出す。もしタキシードを着ていたら、彼は誰かを狙ってはいるが、手をつけないで様子を見ているだけなのだ。亭主は不安は感じても、取り扱いをよくして、コニャックのような簡単なものを出す。だが、彼が燕尾服に例の外套、シルクハットといういでたちで、左腕の下をちょっとふくらませ、銀頭のステッキを携えて、慎しみぶかい微笑を浮かべて現われる時には、なにか大変なことが起こるにちがいないのである。こんな時には、亭主は飲物はなにも出さない。オーケストラの楽手が調子を外したり、給仕があやまって皿を毀(こわ)したりする。早くも赤信号に気付いた連中は、誰かがナイフを抜かぬうちにと、急いでガールフレンドを先に帰らしたりするのだ。
 ところが、この噂はじっさいよく当るのである。じつは私もそんな行動は、予審判事(ジュ・ジダンストリュクション)の威信を傷つけると、彼に忠告したことがあるのだ。じっさい、そんな場所をうろつき廻るのは、部下の警部あたりにまかせておけばよいことで、なにも彼が直接出向くには及ばないのである。だが、好きでやっていることなので、いくら傍から忠告しても無駄であった。おそらく彼は、みすぼらしい場末の小路の、薄暗い街燈の下で、誰かに不意に刺されるか射たれるかして、仕込杖を半分抜きかけたままオパールの飾りボタンを泥まみれにして倒れる日まで、この習慣を押し通すつもりなのであろう。
 私は時々彼のお伴を仰せつかったが、燕尾服を着ていたことは一度しかない。その晩、相手の男に手錠をはめるまでにはかなりの騒ぎがあり、新調のシルクハットに二つも孔をあけられた私は、ぶつぶつ苦情をいったものだが、彼は相手にしてくれない。でも、とにかく、その日は無事に暴れ狂う犯人を憲兵の手に渡すことができた。だから、したがって、この話の始まる十月のある晩、バンコランから誘いの電話がかかった時には、私はちょっと不安の混った、複雑な気持にならざるをえなかったのである。だが、「燕尾服?」ときくと、そうでないという返事だったので、安心したわけであった。
 私たちは街の赤い灯を追いながら、ポルト・サンマルタンのあたりの、夜の女の家がたくさんあって怪しげな人物の徘徊する、華やかで、汚ならしくて、騒がしい区画へ足をむけた。そして酔っぱらいどもの集った、地下室のナイトクラブへ入ったのは、十二時頃だったであろう。外国人、ことにわが国の人は、パリの人は酒を過ごさないという説を執拗に信じているが、騒がしいクラブの隅っこのテーブルに座を占めて、大声でブランデーを注文した頃の私たちは、このおかしな説について論じあっていたのである。
 たちこめた煙を、扇風機が掻き乱していたけれど、それでも部屋のなかは暑くるしかった。青いスポットライトが、闇に入り乱れた踊子を照らし出すと、紅を塗った顔が異様に輝いては、またうごめく人影に呑まれていった。長くひっぱるラッパの音と、短い濁った音でリズムを刻みながら、オーケストラはゆるやかにタンゴを演奏して、手風琴(てふうきん)が千切れるような鋭い音がしたと思うと、たちまち低いラッパの囁きになったりする。そして、ひとしきりホルンが疳(かん)走った響きを立てて、高くなった調子が足踏みをし、やがてそれが低く落ちゆく頃には、波のようにさざめく踊子たちは、青い灯に照らされた壁に影を映しながら、消えてゆくのであった。店の売子や連れの男たちが、思わずうっとり目をつむったのは、あらゆるダンスの中で、タンゴが最も奔放的であり情熱的な響きをもっているからでもあろう。青からさらに緑色に切り替えられた電燈の明滅するなかに、私は緊張した人々の顔が照らし出されたり、消えたりするのを見ていたが、それらの顔はいずれも相当酔って、悪夢に現われる顔のように物凄い感じであった。そして手風琴がやんで、騒ぎが鎮まると、初めて鬼の泣くような、微かな扇風機の唸りが聞こえるのだった。
「どうして選(よ)りに選って、こんなところへ入ったのだ?」と私がきいた。受け皿の音をさせながら、給仕が物慣れた手つきで、テーブルの向うから勢いよく飲物を並べた。
 うつむいたままバンコランが答えた。「いまその方へ顔をむけちゃいかんよ。二つ目の隅っこに坐っている奴があるだろう? ほら、わざとおれの方を見ない振りしている男――」
 そっと私はそのほうへ視線をむけた。暗いのではっきりとは見えないが、緑色の光線に照らし出されたその男は、両方に二人の女を抱えて、げらげら笑っているのだ。光線を受けたのは、ほんの一瞬だったが、黒い頭の毛を油でてかてか光らせ、大きな顎、鉤(かぎ)のように曲った鼻のその男は、じっと眸(ひとみ)をすえて、光の来るほうを睨んでいた。なぜだか、それがこの平凡な部屋の空気にそぐわぬ光景のように思われた。光に顔をむけて、またそれから目をそらす彼を見ていると、光線を差し向けられて、慌てて逃げだす闇の中の蜘蛛(くも)を思わせるのだった。一度見たら忘れられぬ顔であった。
「獲物?」私がきいた。
「いや、まだそこまで行っていない。今夜はここである人と会う約束がある……あ、来た。こっちへ来る。早く飲んでしまいたまえ」
 一人の男が、あたりの光景に気を呑まれた形でテーブルの間を縫いながら、おどおどとこちらへ歩いてくる。背の低いわりに、頭の大きい、軟らかい白い顎鬚(あごひげ)のある老人であった。彼は緑色の光線を差しむけられると、眩しげに目をとじて誰かにつまずき、やや慌てぎみで、バンコランを探している。探偵の合図で立ちあがった私は、彼のあとについて裏手のほうへ歩いていった。あとからその老人もついてくる。と歩きながら、私はちらと鉤鼻の男に目をくれた。女の一人を胸に抱きよせ、その髪をつつきながら、まばたきもせずこちらを見つめている。バンコランが私たちを連れていったのは、やかましい楽師たちの座席のすぐそばのドアであった。
 そのドアをあけると、天井の低い、白塗りの廊下が現われた。薄暗い電燈がついている。小柄な老人は背を丸め、小首をかしげ、赤い瞼、薄青い目を、まぶしげにまたたきする。手入れのわるい顎のあたりの白い髭が、骨ばった顔に比較して、目だって大きく、頬骨のあたりがぴかぴか光っているのに、禿げた頭のてっぺんは埃(ほこり)でもかぶったように艶(つや)がなかった。耳の後ろに垂れた白髪は、先が曲ってそり上っていた。だぶだぶの焦茶(こげちゃ)の服を着た、どことなく神経質らしい老人であった。
「どんなご用事か知りませんが、店をしめて来ました」彼は息をはずませていた。
「この人はね、」とバンコランが紹介した。「パリで一番古い蝋人形の陳列館を開いておられる、オーギュスタンというかただ」
「オーギュスタン陳列館と申します」と背の低い男は、頭をもたげ、写真をうつす時のように姿勢を正した。「陳列してある蝋人形は、みな私が自分で作ったのです。オーギュスタン陳列館というのを、お聞きになったこと、ございませんか?」
 まじまじと老人が覗きこむので、実は聞いたことがないのだけれど私は頷いてみせた。グレヴァン陳列館は知っているが、オーギュスタンというのは初耳だった。
「今じゃ昔ほど人が来なくなりましたが、それは場所がへんぴなのと、電燈をたくさんつけたり、酒をのましたりしないからですよ」彼は頭を振って、乱暴に帽子をいじった。「あなたはどうお考えです? 蝋人形は低級な見世物ではない。芸術品を陳列するところです。私は父がやったと同じ気持で芸術品を作っています。父の細工は当時の名士たちもほめていました」
 帽子をいじりながら、彼は大げさな身振りで、なかば反抗的なかば哀願するような口調で、なおも喋り続けようとしたが、バンコランは私たちをうながして、廊下の先にある、もひとつのドアを開けた。
 その部屋は、てかてかと飾り立てて、おそらくは目隠しのためであろう、窓に古びた重い赤いきれなぞ垂らしてあったが、そのまんなかのテーブルから、一人の若い男が勢いよく立って私たちを迎えた。なんだか安っぽい歓楽や下等な香水を連想させるような部屋で、その汚れた赤いシェードのある灯の下では、始終密会でも行われるのではないかと、思われるのであるが、そこで煙草の煙を渦巻かせながら待っていた若い男は、およそ、その部屋の感じとは似てもつかぬ人物で、丈夫そうな筋肉、日にやけた皮膚、黒い髪の毛は短く刈りこんで、視力は相当いいらしく、どことなく軍人らしいところがあった。長い間、気をもみながら待っていたのであろう、彼は私たちが入ってくると、目を細めて安堵(あんど)したような顔になった。
「どうも、こんな場所を指定してすみません。でも人に聞かれたくないと思いましたのでね……。紹介しましょう。ショーモン大尉、マールさん――私の仲間です――それからオーギュスタンさん」バンコランがいった。
 にっこりともしないで若者はお辞儀をした。平服には慣れないらしく、始終両手で胴のあたりをさする。いかめしい顔で彼はオーギュスタンを見ながら、
「なるほど。この人ですか?」
「いったい、どうしたんです?」と、オーギュスタンは居ずまいを正し、口髭をさかだてた。
「こりゃまるで罪人扱いだ。私の言うことも聞いて頂きたい」
「まあ、お坐りなさい」とバンコランがなだめた。私たちは桃色の傘のある電燈のついたテーブルを囲んで坐ったが、ショーモン大尉のみは、立ったまま左の脇腹をさぐっている。剣でもさぐっているのだろうか?
「では、ちょっと訊きたいことがあるのですが、オーギュスタンさん、いま訊いてもいいでしょうね?」バンコランがいった。
「いいです」ちょっと威張った答えだった。
「蝋人形の陳列館をお始めになってから、ずいぶん長いのでしょうね?」
「四十二年です。でも警察の調べを受けるのは今度が初めてです」声を震わせながら、瞼の赤い目でショーモンを見た。
「入場者はそんなに沢山はないのでしょう?」
「その理由はいま申し上げました。入場者は少なくてもかまわんです。芸術のために働いているのですから」
「館員はあなたのほかに?」
「館員?」またもとの問題にひきずり戻されて彼は瞬きした。
「館員と云ったところで、娘が一人いるだけですよ。娘が売った切符を私が受けとるのです。それ以外のことはいっさい私がやります」
 バンコランは無表情、というよりむしろ親切らしい態度だったが、そばからオーギュスタンを見おろす大尉の鋭い目には、憎悪や怒りや決心が輝いているように思われた。やがて大尉は椅子に腰をおろすと、
「あのことを訊いたらどうです?」と、力強く両手を握りしめた。
「そう」バンコランはポケットから一枚の写真を取りだした。
「あなた、この若い女を見たことがありますか?」
 年は十九か二十、唇がやわらかくて、厚くて、頭の小さい、黒目の明るい、やや感覚が鈍(にぶ)そうではあるが、それでも素晴しく美しい女が、媚びるような目つきで、こちらを見ている。写真の片隅に、パリで有名な写真屋の名が書いてあるぐらいだから、店の売子かなんかではないのであろう。オーギュスタンが写真を見終ると、ショーモン大尉がそれを取って伏せた。電燈に照らされた、砂で磨いたような大尉の日やけのした顔は無表情だったが、目はらんらんと輝いていた。
「よく考えて答えてください。これはぼくの婚約した女だから」そう彼がいった。
 オーギュスタンは険しい目つきで、
「こんな人は知りません。まさか私が……」
「見たことはないのですか?」バンコランがきいた。
「いったい、私がどうしたというんです? どうしてそんな目つきで、私をごらんになるんです? この女に見覚えはあります。どこかで見たような気がする。――どうして覚えているかというと、私は蝋人形を見に来る人の――心の影――顔に現われる表情――そんなものを始終注意して――」と細い手をひろげて、「――蝋人形を作る時のために研究しているんです。おわかりですか?」
 蝋をこねる時のように指を動かしながら、彼は烈しい顔で私たちを順々に見た。
「でも、どうしてこんなところに呼びつけられたのか、わけがわからん。私がなにをしたと云うんです? 私は、誰にも危害を加えた覚えはない。疑われるのは迷惑なことです」
「この写真の女はオデット・デュシェーヌと云いましてね」とバンコランが説明した。「前の大臣のお嬢さんなのです。ところがそれが死んだのです。この人がオーギュスタン陳列館に入るのを見た者はあるが、それっきり出て来なかったのです」

……巻頭より

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