「若きウェルテルの悩み」

ゲーテ著/井上正蔵訳

ドットブック版 172KB/テキストファイル 132KB

400円

ドイツの生んだ最高の文豪のひとりであるゲーテが、25才のときにたった4週間で一気に書き上げた世界を代表する「青春の文学」。恋に悩み、傷つき、仕事に生きがいを見つけることもできず、多感な芸術家的資質をもった青年ウェルテルは、ついに破滅への道をたどる。

ゲーテ(1749〜1832)父は帝室顧問官、母は同市市長の娘という裕福な市民の長男として生まれる。ストラスブール大学で法律の勉強をしながら、彼の情熱は恋愛と創作のほうに注がれていった。折りからの疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)時代の旗手としてドイツのみならず外国でも有名となる。他の代表作に『ヴィルヘルム・マースターの修業時代』『ファウスト』『詩と真実』『イタリア紀行』などがある。死に際して「さ、よろい扉をあけておくれ、もっと光を。…もっと光を」とつぶやき、ワイマールで82歳の生涯を終えた。

立ち読みフロア
一七七一年五月四日
 きみと別れてここに来たことを、ぼくはどんなに喜んでいるだろう! 友よ、人間の心なんて妙なものだね。ぼくの大好きなきみ、とうていそばを離れられないと思っていたきみを置き去りにしておきながら、こんなに喜んでいるなんて! でも、きっときみは許してくれるだろう。きみ以外のいろんな連中とのつながりは、運命が、ぼくのような人間の心を不安にさせるために、わざわざ選び出したようなものではなかったろうか。思えば、あのレオノーレには気の毒だった! だが、ぼくの罪ではない。彼女の妹のいっぷう変わった魅力にひかれて、ぼくがなんとなく楽しくなっていたとき、気の毒にもレオノーレの胸に恋心が芽ばえてしまったというわけだ。どうしようもないではないか。でも――まったくぼくの罪ではない、などと言えるだろうか? レオノーレの気持ちをかき立てるようなことはなかっただろうか? レオノーレの生まれながらの素振りはぼくたちをよく笑わせたけれど、たいしておかしくもないのに、ぼくだって楽しそうにしてはいなかっただろうか。それに、ひょっとしてぼくは――。ああ、人間なんて妙なものだね、勝手な愚痴をこぼせるんだから。ねえ、きみ、きみに約束するが、ぼくは心がけを改めるよ。運命がしかけるちょっとした災難を、いままでのようにくよくよ反芻(はんすう)するのはやめよう。現在を楽しむことだ。過去の事は過去の事だ。きみ、きみの言ったとおりだ。人間が――なぜ、そんなふうになっているのかわからないが――いろいろと想像力を働かせて過ぎ去った不幸の思い出をつぎつぎに呼び戻したりせずに、現在を恬淡(てんたん)として過ごすようになれば、ひとびとの苦しみや悲しみはもっと少なくなるだろう。
 すまないが、母に伝えてくれないか。頼まれた用件はちゃんとかたづけて、なるべくはやく結果を報告すると。このことで叔母に会ったけれど、われわれのほうで考えていたような悪い女では全然ないことがわかった。明るい、はきはきした、とてもいいひとだ。ぼくは、遺産の分け前をくれないので母が困っている、と話した。すると叔母は、いろいろ理由や原因を述べ、いくつか条件を出して、それをのんでくれれば何もかも渡そう。しかもわれわれが望んでいる以上に渡すつもりだ、というのだ。――しかしまあ、いまはこの件について何も書きたくない。万事うまくいくだろうと母に伝えてくれたまえ。ねえ、きみ。それにしても、こんどの小さな事件でもわかったんだが、世の中のいざこざは、悪意や策謀から起こるというよりは、むしろ誤解や怠慢から起こるのではないだろうか。少なくとも、悪意や策謀なんて場合は、めったにないのだ。
 とにかく、ぼくはここでとても元気だ。楽園のようなこの土地では、ひとりぼっちというのは、ぼくの心にとって得がたい清涼剤だよ。春らんまんのいまの季節は、凍(こご)えがちなぼくの心をあふれるばかりのあたたかさで包んでくれる。木という木、生垣(いけがき)という生垣は、まるで花をいっぱいつけた花園のようだ。ああ。こがね虫にでもなって芳香の海の中を泳ぎまわり、ありとあらゆる養分を見つけることができたらいいんだが。
 町自体(じたい)は、そういいところではない。けれども、周囲一帯は自然のえもいえぬ美しさ。だからこそ、あの亡(な)くなったフォン・M伯爵がここの丘のひとつに庭園をつくったのだ。いくつもの丘が交わって、千変万化の美を競(きそ)い、すばらしい谷間をつくり出している。庭園は簡素だが、一歩足を踏み入れれば、設計したのは学者づらした造園家ではなく、ここで悠々(ゆうゆう)自適を楽しもうとした感情こまやかなひとだということがすぐわかる。くずれかかった四阿(あずまや)のなかで、ぼくは亡くなった伯爵を思って、ずいぶん涙を流した。そこは、むかし、伯爵のお気に入りの場所だったが、いまはぼくの好きな場所になった。そのうち、ぼくがこの庭園の主(あるじ)になるだろう。知り合ってほんの二、三日なのに、庭番は、ぼくに好意をもっている。今後もぼくをいやがることはないだろう。
……第一部冒頭部

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