「青い麦」

コレット作/石川登志夫訳

ドットブック版 165KB/テキストファイル 127KB

300円

ブルターニュの海辺の避暑地で何度目かの夏の休暇をともに過ごす十六歳のフィリップと一つ下のヴァンカ。輝く陽光、きらめく海、とりどりの花々と木々と鳥、渡る風……網をもって一緒に海の獲物をあさる嬉々とした遊びのなかにも、二人ははっきりと異性を意識する。二人の揺れ動く心のひだのあいだに、「白服の夫人」ダルレー夫人が登場する。フィリップはその怪しい魅力のとりことなる。現代版ダフニスとクロエの物語。

コレット(1873〜1954) 20世紀のフランスを代表する作家として再評価されつつある女流作家。二十歳のとき、年上の新聞記者と結婚。夫名で出版した『学校のクロディーヌ』が好評を得、立て続けに作品を発表した。06年に離婚後は、舞台に立ってパントマイムの世界で名を馳せた。12年には再婚。翌年には長女が誕生した。戦時中は新聞記者として活躍。戦後は『シェリ』『シェリの最後』など数々の作品を世に送り出し、作家としての名声を確立した。35年には3度目の結婚をしたが、夫の献身的な協力によって、70歳を過ぎても小説を書き続けた。

立ち読みフロア
「漁(りょう)に行くのかい、ヴァンカ?」
 春雨(はるさめ)の色をおびた眼をしたツルニチニチソウ(キョウチクトウ科の植物、花はあざやかな空色。ヴァンカの眼が青いことから、彼女の愛称となっている)のヴァンカは、横柄(おうへい)にうなずいて、そのとおりよ、漁に行く格好をしてるじゃないの、と言わんばかりに答えた。つぎの当たった上着も、塩水で固くなった海岸用のサンダルも、それを証拠立てていた。作ってから三年にもなるので、丈(たけ)が短くなって、膝(ひざ)をのぞかせた青と緑の格子縞(じま)のスカートは、小エビやカニをとるときだけにはくものだと、だれでも知っていた。それに、肩にかついだ二本のエビ網や、砂丘のあざみ(・・・)のように毛ばだって、青味がかったベレー帽にしても、見れば、これが漁に行く身支度だぐらい分かりそうなものではないか?
 彼女は自分を呼びとめた少年のそばを通りすぎた。素焼(すやき)色の、均整がとれた細長い脚を大股にはこんで、彼女は海面にあらわれている岩場の方におりて行った。少年のフィリップは、今年のヴァンカと去年の夏休みのヴァンカとをくらべながら、歩いて行く彼女を見つめていた。これからも、もっと背丈をのばすつもりだろうか? もうそろそろのばすのをやめてもよい頃だ。背丈がのびたので、肉は去年以上にはついていない。かがやかしい黄金色のこわい麦わら(・・)のように乱れた短い髪の毛は、四か月も伸ばし放しに伸ばしているのに、まだ編むことも巻くこともできないのだ。頬(ほお)や手は日に焼けて黒いのに、襟首(えりくび)は髪の下になっていて、牛乳のように白く、ぎごちなく微笑するかと思えば、大声をたてて笑うこともある。そしてまだふくらんでもいない胸の上に、ジャンパーや上着をぴったりと着ているかと思うと、水にはいるときなぞは、まるで男の子みたいに平気で、スカートもショート・パンツも、できるだけ高々とまくりあげるのだ……。
 丈の高い草が生えている砂丘に寝ころんで、彼女の様子をうかがっていたこの仲間は、くぼみで二つに割れた顎(あご)を、十文字にくんだ両腕の上でゆすぶっていた。ヴァンカが十五歳と六か月になったのだから、彼は十六歳六か月になるわけだ。子供の頃は、ずっと仲よしの二人だったのに、青年期になると、次第によそよそしくなってきた。まず去年のことだが、ひどい口喧嘩(げんか)や、意地の悪いなぐり合いをしたものだった。それがこの頃では始終、二人の間に重苦しく沈黙がおいかぶさって来るので、無理に会話をしようと努力するよりは、むしろ仏頂面(ぶっちょうづら)をしている方がましだと思うようになっているのだ。しかし狩猟や人をだますことに生まれつき向いているずるいフィリップは、自分の沈黙を神秘のヴェールで包みかくしてしまい、自分の妨げになるものを残らず反対に武器として使ったりした。彼は迷いからさめたような素振りをみせて、『言ったってしょうがないじゃないか?……きみなんかには分かりっこないんだから……』とずばりと思いきって言ってのけるが、ヴァンカの方は、黙りこんでしまい、自分が思っていることを言おうとしても言えずに、少年の気持ちを知りたいのにきけないで、ただ苦しむことしかできないのだ。そのうえ一方では、すべてを捧げたいという早熟な烈しい本能に抵抗しながら、日ごとに変わり、一時間ごとに以前よりも、逞(たくま)しくなってゆくフィリップが、毎年七月から十月にかけての間、海上にかたむくように突き出ているこんもりと茂った森の中へ、また黒いつのまた(・・・・)(スギノリ科の紅藻植物。のりにして漆喰に使用する)が生えている岩場へ、彼を連れて行く細い錨索(いかりなわ)を切りはしないかという懸念に、ただ精一杯耐えこらえることしかできないのだ。はやくも彼は、見るとはなしにこの女(おんな)友だちを、透明で、流動する、つまらないものでもあるかのように、いやな目つきで、じっと見ているのだ……。

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