「車輪の下」

ヘッセ作/岩淵達治訳

ドットブック版 250KB/テキストファイル 175KB

400円

郷里の期待を一身にになって町の神学校へ入学したハンス。そこに待っていたものは、厳格な規律、大人の利己心、友情と裏切り、そして失意とささやかな反抗であった。ハンスは郷里へ帰る。だが、そこも決して心が休まる場所ではなかった。若者の心の彷徨と挫折を美しい自然のなかに描ききった青春小説の代表作。

ヘルマン・ヘッセ(1877〜1962) 南ドイツの小さな町カルヴの宣教師の息子。時計の歯車磨き助手、書店員などをへて、「郷愁」で広く認められて作家に。作品はすべて自伝的で、苦悩をへてある種の解脱へと到達する内容が特色となっている。代表作「郷愁」「車輪の下」「デーミアン」「荒野の狼」「知と愛」「シッダールタ」「ガラス玉演戯」。

立ち読みフロア
  ハンス・ギーベンラートは天才的な子供であった。ほかの子供たちの間をかけまわっていてもひときわめだって品がいいことは一目見てすぐわかった。この小さなシュワルツワルトの町からは、かつて一度もこの子のような人種は生まれなかった。この狭い地域を越えてものを見たり活動したりした人間は、これまでまだひとりも出ていなかったのだ。この少年が、その真剣なまなざしと利口そうな顔とそして優美(ゆうび)な身のこなしをいったいどこからさずかったのかは、だれにもわからない。
 ひょっとしたら母からの遺伝だったのだろうか。母親は数年前に亡くなっていたが、生きていた時分いつも病弱で苦しんでいたということ以外はめだったところはなにもなかった。父親の血は問題にならない。とすると、まさに、八、九百年の歴史のなかでたくさんの勤勉な市民を世に送ったが、いまだかつてひとりの才人、ひとりの天才も生みだしたことのないこの古い小さな田舎町(いなかまち)に突然不思議な火花が天から降ってきたということになるだろう。
 現代的な思考法を身につけた観察者なら、母親が弱かったことと家系が相当古いことを頭において、知的な因子(いんし)が家族の一員に突然強くあらわれたことを、この家系に頽廃(たいはい)の徴候が始まったのだと説明したかもしれない。しかし、ありがたいことにこの町にはこういう現代的な人間はいなかった。なにしろ役人や教師たちの間でさえ、若い世代の連中や世事に抜けめのない者だけが、雑誌の記事などで「現代人」という存在のあいまいな知識を得ていた程度なのである。なにもツァラトゥストラ〔哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」に出てくる超人〕の教えを知らなくても学のある人間として暮らしていけたのだ。離婚はほとんどなく、しかも幸福といえる結婚が多かった。
 すべての生活様式は癒(いや)しようがないほど旧態然としていた。ぬくぬくとして裕福な市民たちは――そのなかにはこの二十年のあいだに手職人から工場主になり上がったものもいるが――官員(かんいん)さんの前では帽子をとっていかにも交際してもらいたいような様子をみせながら、仲間うちでは官吏のことを貧乏ったれとか下っ端役人とか呼んでいた。そのくせおかしなことに、自分たちの息子にはできれば学問をさせ、官吏にしたいというのが彼らのなによりの野望であった。しかし残念ながらいつもその望みはかなわぬ甘い夢に終わったのである。なぜなら、彼らの後継ぎでは、たいていは大汗かいて何度も原級に止め置かれたすえ、ラテン語学校を出るのがやっとだったからである。

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