「白い修道院の殺人」

ディクスン・カー/長谷川修二訳

ドットブック版 418KB/テキストファイル 204KB

600円

「密室殺人」マニア、ディクスン・カーの、ヘンリー・メリヴェール(H・M)卿を探偵役とするシリーズ第三作。この作品もやはり一種の「密室殺人」を扱っているのだが、本書に取り上げられた「密室」はちょっと毛色が変わっている。一面に雪の降り積もった銀世界、そこにぽつんと 建てられている「白い修道院」という名の離れ家で殺人は起こる。だが、犯人の足跡は全くない。あるのは死体を発見した者の足跡だけ。 しかも、この人物は犯人ではあり得ないのだ。大自然が構成した密室の謎を、H・Mはいかにして解決するのか?  江戸川乱歩が密室を越えた不可能興味と絶賛した作品。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。他の代表作に「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「 曲がった蝶番」など。

立ち読みフロア

「なんだ、貴様はおれの甥(おい)なのか?」H・Mはそういって、渋い顔で眼鏡ごしに、なおもみつめた。口を気むずかしそうに《への字》に結び、大きな両手は丸くふくらんだ胃の上に組んでいる。回転椅子が机のうしろできしんだ。彼は鼻をひくつかせた。
「うむ、では葉巻をとれ。それからウイスキーをやれ。おい、何がそうおかしいんだ。図々しい奴だな。何を一体ニタニタ笑っとるか、貴様は」
 ヘンリー・メリヴェール卿の面前で、卿の甥は危うくふき出しかけたのである。不運なことには、ほとんど誰でも偉大なるH・M(エイチエム)〔ヘンリー・メリヴェールの頭文字。著名な人を側近者はこういう風に略称することが多い〕にこういう仕うちをする。陸軍省内の部下どももご多分にもれないのだが、これがまた卿のはなはだ不愉快なことのなのである。ジェームズ・ボイントン・ベネット氏はその槍玉にあがったところなのだ。こちらが青二才で、しかも外国から渡ってきたばかりで、かつては英国陸軍情報部という大変な小手先の早業を演ずる機関を全く支配していたという著名な伯父に、しかも事務所ではじめて向いあうのであるから、この場合、少々如才のないところを見せる必要がある。近年のようなノンビリした時代にはH・Mも大体飾りものだが、でもまだ二三の特務機関を担当している。ヨーロッパの情勢が安定していないところから、面白いこともあれば往々にして危険もあったのである。ベネットの父はH・Mの義弟で米国政府内でも有数の巨頭であったが、ベネットが出発するまえに特別な家族的な心得をさずけた。
「禁物があるんだ」老ベネットが言った。「あの人の前では、どんな場合であろうと、決して儀式ばってはいけないのだよ。全く理解してくれないだろうからな。あの人は今までに政治的な会合の席上、うっかり内務大臣のことを奴(やっこ)さんと呼んだり、総理大臣のことを馬面(うまづら)と呼んだりして、何度も問題を起こしたものなのだ。行ってごらん、昼寝をしているかもしれないよ。もっとも、ひどく忙しいようなふりをするだろうがな。自分が迫害されていて、誰も真価を買ってくれていない、という妄想にふけるのが好きなんだ。従男爵という今の爵位は二三百年来のものなんだが、また戦闘的な社会主義者でね。弁護士と医者の資格をもっているが、およそ類のないほど無茶な文法をつかう。口ぎたないのが性分でな。これには女のタイピストが弱っている。白い半靴下をはいて、ネクタイをしないで人前にでる。顔つきで騙(だま)されてはいかんよ。ご当人は自分では仏像のように無感性で、およそ滅法界なく苦(にが)い顔をしていると考えるのが好きなんだ。ついでだが、犯罪の捜査にかけては、先生、たいした天才であることも教えておこうかな」
 ヘンリー・メリヴェール卿の甥が驚いたのは、卿がこの描写にぴったりだったからなのだ。大きな取り散らかした机の後ろの椅子に、二百ポンドある図体をどっかと乗せ、ぜいぜいと喘ぎながら不平をならべている。彼の大きなはげた頭は、陸軍省の喧騒をはるか下に、高い静かな窓に映えている。かつての華やかさの面影を残す広いH・Mの部屋はかつてホワイトホール宮殿の一部であったのだから、このしめっぽい錯雑した官庁街でも一番古い部に属している。みおろせば、遥か下には庭園の荒涼たる一部分がみえ、ヴィクトリア堤防やテムズ河がみおろされる。煙を含んだ青い黄昏(たそがれ)――クリスマス週間の霜の気を帯びた黄昏(たそがれ)が、今や窓を曇らせている。ベネットには堤防の石垣についている街燈の反映するのがみえた。バスが走ったり警笛をならしたりするにつれて窓の鳴るのがきこえたし、また摩滅した白大理石の煖炉で火の燃える音もきこえてきた。その火のほかには、部屋には明りがない。H・Mは仏頂面をして座り、鼻の頭までずりおちている眼鏡ごしに、眼をパチクリさせている。その頭の真上に、シャンデリアから大きな赤い紙のクリスマスの鐘がぶらさがっている。
「そうか!」と唸(うな)ったH・Mは相手を眺めているうち、にわかに読めたらしい。「貴様はあれを見ているのか。おれがあんなものを部屋じゅうにぶらさげると思うなよ。だが、このおれのことを誰も何とも思ってはおらんのだ。ここではすべておれをそんな扱いをしおる。あれはアメチョコのしわざじゃ」
「アメチョコ?」
「秘書じゃ」と、また唸る。「いい娘(こ)だが、うるさくてかなわん。おれは多忙だと堅く命令しとくのに、いつもおれを電話にださせくさる。おれはいつも多忙なんだ。ふん! それなのにおれの机に花をおいたり、方々に鐘をぶらさげたりする……」
「ですが」ベネットが理にかなった観察をくだした。「お気に召さないのでしたら、おとりになったらどうなのですか?」
 H・Mの厚いまぶたが上った。
「ルルルル!」というような猛烈な音をたてながら、睨みつける。かと思うと、いきなり話題を転じてきた。
「甥っ子の癖に失敬なことをいうぞ。ふん。貴様もほかの甥どもと同じだ。えーと、貴様はキティの倅(せがれ)だったな? あの米人(あめ)と結婚した妹の、な? そうじゃ。何か飯をくうために働いとるのか? 米人(あめ)は何かというと働く連中だが」
「ちょっとやっています」ベネットは承認した。「ですが、何をやってるのか自分では確かでないんです。父に使われている国際的使い走り役とでもいいましょうか。それで十二月だというのにこうして海を渡ったのです」
「ほう?」H・Mがジロリと見上げた。「まさか貴様もこの商売に入れられたのではないだろうな。悪い。足を入れるな! 阿呆の商売だ。退屈だぞ。そのくせ、コキ使われてしまう。内務省はいつもビクビクして、ありもせぬ戦艦ばかりに気をつかっている。で、貴様はもうこの水商売にはいってしまったのか?」
 ベネットは机ごしに差し出された箱から葉巻を一本とった。彼はいった。
「違います。はいりたいと願っているだけなのです。僕がすることときたら、父の省を訪ねてきた外国の高官にカクテルをこさえるか、でなければ小さい国の外務省宛に親父(おやじ)の書いた陳腐きわまる文書を届けることだけなんです。ご存知でしょう、みんな。『大臣は謹みて敬意を表し、ご高見の件に関し充分注意を払わしむることを閣下に保証いたすものに御座候――』しかじか云々。僕がロンドンにこられたのなんかは全く運命の気まぐれからなんですよ」ここで、自分の頭のなかにある話題を持ち出すべきかどうか、少々自信がないままに彼は躊躇(ちゅうちょ)した。
「こられたのは、キャニフェストのおかげなんです。キャニフェスト何とか爵ですが、ご存知でしょうか? 新聞のチェーンをもっている人です」
 H・Mは誰でも知っていた。人のたてこんだ宴会などでは必ず彼はだらしなく、あちこちぶつかって歩いた。それでメイフェア〔ロンドン市ハイドパーク東方の高級住宅地〕の宴会ですら、ずっと前から招待側の夫人たちは彼の行為に対して詫びをいうのをやめていたのである。
「キャニフェストか?」まるで葉巻の煙が不愉快だといったような訊ねかたであった。「知っとるとも。英米で同盟をして、邪悪(いや)な眼つきの日本人をやっつけてしまえ、と騒ぎたてておる奴じゃろう? そうじゃ。でかい男で、総理大臣みたいな顔つきをしとって、世界中のオジイチャマといった態度をしてさ――猫なで声を出して、どんな時にでも演説をしたがる奴じゃろ? おうおう。しかも、浮気者でな」
 ベネットは肝をつぶした。

……巻頭より

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