「影が行く」

ジョン・W・キャンベル/矢野徹・川村哲郎訳

ドットブック版 302KB/テキストファイル 224KB

600円

現代SFの真の育ての親、キャンベルの珠玉・中短編集。南極大陸の大氷原の下から探検隊が見つけた、おどろおどろしい物体の話「影が行く」、人類がその尊厳と価値を忘れ去ってしまった二万年後の未来を描いた「薄暮」、原子力発動機にだけ頼ろうとする異星人と人類との闘いを描く「エイシアの物語」など、どの作品も創意にあふれている。28歳のときの作品「影が行く」は、『遊星よりの物体X』(1951)、『遊星からの物体X』(1982)として二度映画化されている。

ジョン・W・キャンベル(1910〜71)アメリカのSF作家、編集者。マサチューセッツ工科大卒。「アメージング・ストーリーズ」誌からデビュー、専門の科学知識を駆使した完成度の高い作品を多数発表した。1937年から亡くなる直前まではSF雑誌「アスタウンディング・サイエンスフィクション」の編集長を務め、SF黄金時代を築いた立役者。アシモフ、ハインライン、ヴァン・ヴォクト、レスター・デル・レイなど多くの超一流作家を育てた。

立ち読みフロア
 …… ブレアは落着かぬ様子で身じろぎし、その小さな節くれだった指を動かした。手の甲の茶色のそばかすが前後に動いた。かれは帆布をすこしめくって、氷の中に閉じこめられているものを見つめた。
 マクレディは、その大きな身体をちょっと伸ばした。かれは蒸気トラクターにそれをのせ、この磁極基地まで四十マイルの道を運んできたのだ。その物静かな意志でさえ、もう一度仲間といっしょになれるかどうかという心配に押しつぶされそうになっていた。極点からの風が狼の遠吠えのように吹いてくる第二基地は、淋(さび)しく静かだった。その眠りのあいだも風は吠え続け、その怪物の何とも言いようのない顔は、マクレディがはじめて透明な氷の中で発見したときと同じ、氷斧を頭にたたきこまれたままの姿で、かれのほうを見つめていたのだ。
 大きな気象学者は、また話しはじめた。
「問題はこうだ。ブレアは、この怪物を調べてみたいと言う。とかしてしまって、その組織を顕微鏡で調べたいと言うんだ。ノリスは、そんなことをすれば危険だと言い、ブレアは安全だと言う。医師(ドクター)コパーは、ブレアとほとんど同じ意見だ。もちろんノリスは物理学者であって、生物学者ではない。だが、ノリスの言うことにも確かに一理あるんだ。ブレアは、この寒い極地でも、顕微鏡的に小さな生物はいると言った。そのような生物は、冬には凍ってしまうが、短い三か月の夏のあいだは、とけて生きかえるそうだ。
 ノリスが指摘するのは……そいつらが、とけて、また生きかえるというところだ。この怪物にも微生物がついているだろう。われわれの知っているすべての生物にはついているからな。ノリスが恐れているのは……二千万年も凍っていた微生物を溶かして生き返らせたら、地球にこれまで存在したことのない病原菌が、ふえてゆくのではないかということだ。
 ブレアも、そういった微生物がふたたび生命を取りかえすかもしれないということは認めている。個々の細胞といった未発達なものは、完全に凍結した場合、考えられないほどの長期間生命を保ち続けられるんだ。怪物自体は、シベリアで発見される冷凍マンモスのように完全に死んでいる。高度に発達した生命形態というものは、生きかえったりできないんだ。
 だが、微生物にはできる。ノリスは、これをとかすことによって、人類にはまったく抵抗することのできない病気がひろがるのではないかと言うんだ。人間には全く免疫のきかないものかもしれないとね。
 ブレアの答は、そういったいまだに生きている細菌はいるかもしれないが、ノリスは事をとりちがえていると言うんだ。それらは人間には全く非免疫だ。われわれの生化学はたぶん……」
「たぶんだと!」
 小さな生物学者は頭を小鳥のようにぴくりと動かした。禿頭のまわりの後光のような灰色の髪が怒ったようにゆれた。
「ちえっ、ちょっと見ただけで……」
 マクレディはうなずいた。
「分ってるよ。この怪物は地球のものじゃない。交差感染をおこさせるには、あまりにも、われわれと異った生化学に基いているようだ。ぼくも、そのような危険はないと言いたいね」
 マクレディは医師(ドクター)コパーのほうを見た。医者はゆっくりとうなずき、確信ありげに口をひらいた。
「たとえばだな、蛇のような生物についている細菌が人間に感染するようなことはないんだ。そして蛇は……」
 コパーは、きれいに髭を剃った顔をゆがめてあとを言った。
「その怪物にくらべると、ずっとわれわれに近いものだよ」
 バンス・ノリスは腹立たしげに身体を動かした。これだけ大きい男ばかりが集まっていると、この男はわりに小さく見えた。五フィート八インチぐらいだろうが、がっちりした身体つきだから、よけいに背が低く見えるのだ。その髪の毛は縮れていて固く、まるで鋼鉄の針金のようだった。そして、その両眼は鋼鉄のような色をしていた。
 マクレディが青銅の男なら、ノリスは全身これ鋼鉄の固まりだった。その動作、その思考、かれのすべてが鋼鉄のスプリングのように速くて強いのだ。かれの神経は鋼鉄で――強く、速く動きはするが――腐蝕しやすくもあるのだ。ノリスは自分の意見を固執し、早口でしゃべりはじめた。
「生化学の違いなんて糞くらえだ。そいつは死んでるかもしれん……それとも死んでいないかも……いずれにしても、おれは虫が好かないんだ。なんでもいいからブレア、きみの大切なその怪物を、みんなに見せろよ。みんなに見せて、この基地でその怪物をとかす気になるかどうかを決めるんだ。
 とかすとすれば、今夜どこかの小屋(シャック)でとかさなければいかんってわけだ。とけるとしての話だがな。今晩の当直はだれだい? 地磁気か……ああ、コナントか。今晩は宇宙線の番だな。では、きみが、二千万年ねむりつづけてきたミイラといっしょに起きているわけだ。ブレア、ほどけよ。買う品物を見せないで、買えったって無理な話さ。違った生化学か何か知らんが、とにかくおれには気に入らんものだ。その表情が見分けられるなら……人間じゃないから見分けられないかもしれんが……凍りつくときには機嫌が悪かったんだぜ。機嫌が悪いなんてもんじゃない、すさまじい、気が狂うほどの憎しみだ。
 みんなはまだ、そいつの赤い三つ目も虫がはいまわっているような青い髪の毛も見ていないんだ。虫がはいまわる……糞! そいつはいまもその氷の中ではいまわっているんだ!
 おれは、そいつの赤い目を見た日からずっと、厭な夢ばかり見ているんだ。悪夢ってやつだ。その怪物がとけて、生きかえる夢だ……そいつは死んでなんかいない。二千万年ものあいだ完全に意識をなくしていたわけでもないんだ。じっと待ち続けていたんだ……待っていたんだぞ。きみらも夢を見るさ。地球のものじゃあないその怪物が、今晩宇宙線の小屋でゆっくりゆっくり溶けていくあいだにな」
 ノリスは宇宙線の専門家のほうを見た。
「なあ、コナント。一晩じゅう起きているのはあまり面白くないことだろうな。上では風がうなり……こいつはポトリポトリと溶けてゆく……」
 かれはちょっと話すのをやめて、みんなを見まわした。
「おれには分っている。科学なんてものじゃあない。こいつは、心理学の問題なんだ。みんな、これからの一年間、ずっと悪夢を見るんだ。おれだって、こいつを見た晩から、ずっと毎晩のように見ているからな。だから、おれはそいつを憎んでるんだ……そうさ……そばにはおいておきたくないんだ。
 もとのところへ戻して、もう二千万年、氷づめにしておけばいいじゃないか。おれは、ちょっとした夢を見たぜ……そいつは、おれたちとはまるで違って……そんなことは当り前だが……どうにでも変えられる肉体の持主なんだ。そいつは形を変えて、人間そっくりになり、待って、おれたちを殺して食っちまうんだ……。
 これは論理的な話じゃない。おれにはそれも分っている。だが、そいつは地球の論理で割り切れるものではないんだ。
 そりゃあ、そいつの身体の生化学的な性質は違っているかもしれんな。そいつの身体についている細菌は、生化学が違っていて、この地球じゃ生きていけないかもしれん。だが、ブレア、コパー、ビールスはどうなんだ? そういうのはただの酵素の分子だと言ったな。生きてゆくためには蛋白質のほか何もいらんとな。
 きみらは、何百万と変った微生物があるだろうに、どれも危険じゃないと、なぜ言い切れるんだ。狂犬病のような病気はどうだ? あいつは生化学が何であれ、温血動物なら何だってとりつくんだろう? おうむ病は? ブレア、きみはおうむみたいな身体をしているのか? ふつうの腐敗……壊疽(えそ)……黒斑病はどうだ? そんなのは生化学がどうのなんて選り好みはしないぜ!」

……「影が行く」より

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