「ウィンター殺人事件」

ヴァン・ダイン/宇野利泰訳

ドットブック版 211KB/テキストファイル 110KB

500円

熱心に話しこんでいる途中で、ヴァンスはチラッと、背後へ眼をはしらせた。…部屋の戸口に、当家の執事、ヒギンズが立っていた。顔は白墨のように血の気がない。にごった老眼を大きくみひらいている。…「ああ! 助かりました。ヴァンスさま、よくいてくださいました! リチャードさまのおすがたが見あたりません! なにか恐ろしいことでも――」言うなりヒギンズは、すばやく大階段を、レクスンの書斎のほうへ登っていった。書斎の、暖炉をまえにした床の上に、レクスン家の当主、カリントン・レクスンが倒れていた。……第二の殺人だった! 巻末に有名なヴァン・ダインの「探偵小説二十戒」を収録。

ヴァン・ダイン(1888-1939)アメリカ・ヴァージニア州の生まれ。本名はW・H・ライト。ハーヴァード大学大学院では英語学を研究し、のち画家を志してミュンヘンやパリに遊学した。1914年までの数年間は文芸批評家、美術評論家として活躍。第一次大戦に当ってパリに住み、帰米してから強度の神経衰弱で、1923年から25年にかけて病床生活を送った。この間に二千冊のミステリーを読破、自ら創作への意欲を持つことになった。輝かしい業績と名声の中で、わずか51歳にしてニューヨークで亡くなった。代表作「僧正殺人事件」「グリーン家殺人事件」「カナリヤ殺人事件」「ベンスン殺人事件」

立ち読みフロア
「ヴァンス、すこしからだが空(あ)かないか? 休養をとるのに理想的な場所があるんだよ――ウィンター・スポーツ、愉しい集い。それにまた、その名に恥じぬ大邸宅。くつろげること間違いなしだ。その招待を持ってきたんだが、行ってみる気はないかね?」
 ファイロ・ヴァンスは、ひと息ふかく煙草を吸いこんで、微笑を浮かべた。私たちはマーカム地方検事から電話で呼び出されて、その役所へ駆けつけたところだった。電話口の検事は、ふざけたようなところもあったが、真剣な口調だったことは疑いない。ヴァンスは彼を見て、吐息を洩らした。
「おい、マーカム。率直に言えよ。本当のところは、なんなのだ? え? わが親愛なるラダマンサス君」〔ラダマンサスはギリシャ神話中の人物。厳正剛直な裁判官〕
「君も知っているカリントン・レクスンに心配ごとが起きたと言うのだ」
「ああ!」ヴァンスはものうげに言った。「世の中には、純粋の親切というものはないのかね。悲しいことじゃないか。僕がバークシャーへ招かれたのも、結局は、カリントン・レクスンに心配ごとがあるからというわけか。あれだけの邸だ。探偵の一人ぐらい置いてないのか。レクスンの心配ごとごときは、その探偵が解決するだろうさ。僕が招待されたのも嘘ではあるまいが、といってなにも僕が出なければ、解決不可能というわけでもなかろうに」
「皮肉はよせよ、ヴァンス」
「カリントン・レクスンの心配ごとというのが僕になんの関係があるというのだ? 僕自身は、全然心配ごとなど持っていないぜ」
「そのうちはじまるだろうさ」マーカムはわざと意地の悪い言い方をした。「そんなことを言っているが、君という人間は、肚(はら)の底では、他人の苦悩に喜びを見出している男なんだぞ。そういうのをサディストというんだぜ。そうだろう? 犯罪と他人の悩みのおかげで、やっと生き甲斐を感じているようなもんだ。心配ごとが何よりの好物とあっては、すべてが平和になってしまったら、おそらく退屈のあまり、死なねばならなくなるだろう」
「つまらんことを言うな」ヴァンスは答えた。「僕がサディストだと? 冗談言うんじゃない。僕はいつだって、世間の無事安泰を願って努力しているんだぜ。僕くらい同情心の深い、利己的でない男は少ないと思うよ」
「思ったとおりだ! レクスン老人の悩みが、そろそろ君の同情心に訴えかけてきたようだ。君の眼が輝きだしたじゃないか」
「レクスン邸か……美しいところだ」ヴァンスは考え込むように言った。「しかし、なぜだろう、マーカム。あの巨財、あの安逸、あの慕い慕われている二人の子供、あの豪壮な邸宅、あの名声、あの壮気をもってして――なぜ悩まなければならないのだ? どう考えても、腑(ふ)におちぬことだよ」
「なぜか知らんのだが、とにかく彼は、至急、君にきてほしいと言ってるんだ」
 ファイロ・ヴァンスは、いっそう深く椅子に身を沈めて、
「なあに、レクスンの不安の種は、彼のエメラルドにあると思うね」
 マーカムはするどく相手を眺めて、
「透視術はやめてもらおう。占い師なんてものは、僕の大きらいな人種なんだ。ことに、その予言が、想像から出ているとはっきりわかるときにはね。しかし、もちろんこの場合は、例のエメラルドにきまっているが――」
「くわしく話してくれないか。ひとつも隠さずにな。もっとも貴重な宝石は、隠せといっても隠しおおせるものではないがね」
 マーカムは葉巻に火をつけた。煙とともに、彼は言った。
「レクスンの有名なエメラルド・コレクションについては、いまさら改めて言う必要もなかろう。どんなぐあいに保管されてるかも、君はおそらく、承知していることと思う」
「ああ」とヴァンスは言った。「何年か前に調べたことがあるよ。保管の方法は、非常に不適当だ、というのが僕の意見だった」
「現在でも同じことさ。あそこが僕の管轄外だというのは、僕にとって、なによりありがたいことだ。それでなければ、僕はあのために頭を悩ましつづけておらねばならんだろう。それで僕は、一度レクスンに勧めたことがある。あれをそのまま、どこかの美術館へ移したらよかろうと言ってみたのだが――」
「そんなことは言うだけ無駄さ。レクスンはあの玩具を、狂人のように愛しているんだ。あのエメラルドを手放すようなことがあったら、彼は生きている気もしなくなるだろう。蒐集家というものは、みんなそういったものではあるがね」
「そんなものかね。僕が世界を創ったわけじゃないから、わからんがね」
「それは残念だね」ヴァンスはため息をついて、「で、僕にどうしろというんだ?」
「レクスン邸で、予想もできぬ事態が起こりつつあるのだ。カリントン・レクスンの取り越し苦労にすぎんのかもしれんが、とにかくその不安のために、君のご光来をねがうというわけだ」
「もっと光を(モア・ライト)――なるたけ詳しく」

……巻頭より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***