「素晴らしき犯罪」

クレイグ・ライス/ 小泉喜美子訳

ドットブック版 342KB/テキストファイル 240KB

600円

たまたまニューヨークを訪れていた弁護士マローンとジャスタス夫妻は、ある晩、ぐでんぐでんに酔っ払った青年デニス・モリスンを保護した。翌朝話を聞いてみるとデニスは新婚ほやほやで、花嫁をホテルに残したままだとわかった。そこへ警官が訪れ、デニスの花嫁が殺されたと告げた。…だが、その死体を見たデニスは「これはぼくの妻じゃない!」と叫んだ。ユーモアとペーソスあふれる異色の本格ミステリ。

クレイグ・ライス(1908〜57) アガサ・クリスティの独創性、ダシール・ハメットのスピード感、ドロシー・セイヤーズのウィットを複合して独特の語り口で結合させたと評される、アメリカを代表する女性作家。笑いのある本格ミステリというユニークな作風は、他の追随をゆるさない。他の代表作に 「大あたり殺人事件」「大はずれ殺人事件」「こびと殺人事件」「幸運な死体」など。

立ち読みフロア
一夜明けた花婿

 いつでも一日に一時間だけ、彼は本気で地獄を信じたくなるのだった。早暁、日の出のちょっと前。それは苦痛の、不安の、憂鬱の、そしてときには悔恨のひとときであり、身も心もさいなまれるような半睡半眠の、何度も何度も忘れ去ろうとしている思い出の、そしてまた、これから直面したくないと思っている未来を予告するひとときなのだ。それから同時に、いつだってずきずきと頭痛がしたし、咽喉(のど)は灼けつくように渇いていた。
 もし、もう一度眠れて、もうほんの数時間眠らせてもらえれば、次に目ざめるときには人心地がついているだろう。そりゃやっぱり少しはいらいらして朝食なんか食べる気にはとてもなれないだろうが、とにかく人心地はついているだろう。その数時間さえしのげば、彼はもう一度、この世の中に立ち向かって行ける。
 彼は魅力のある、快活な青年である。ときおりパーティで少々破目を外す(が、そうしょっちゅうというわけではないし、わざとやるわけでもない)。また、ときおりポーカーで勝ったり負けたりもする(が、ほんのときたまのことだし、金額だってそうたいしたものではない)
 だから、いつでも、もう一度眠ってしまいたいという気持と彼は必死にたたかうのだった。眼をつぶり、枕に顔を埋めてしまいたい。ベッドからなんとか這い出して冷蔵庫のところまでたどりつけた場合には、アスピリンか一杯の牛乳が役に立ってくれる。あるいは冷たいビールなら、これはもう大変な効きめがあるのだが、しかしこれだと、あとで目をさますときに胃のあたりになんともいやな、むかむかするような感じが残るのだ。
 しかし、一時間だけ目がさめるおそろしいそのいっときには、もう一度眠りたいという彼の願いは二、三時間後にまた目をさますときの気分なんかどうでもよくなるくらいのものなのだった。むしろ、それは自分の心を苦しめているいろいろな問題から逃げ出したいという必死の欲求なのだ。でも、それも今朝で終りになるだろう。彼はベッドの上で寝返りを打った。眼はつぶったままだった。片腕を顔に載せて光をさえぎった。今日から、今朝から、今、この瞬間から、生活を一新するのだ。完全に一新するのだ。トマトジュースとジンジャーエールしか飲まないようにするのだ。
 それは午前十一時になれば水泡に帰してしまうような、例の三日坊主の禁酒の誓いではなかった。十九歳の頃から彼はそういうものは一度もしたことがなかった。生来、リアリストで、そんな誓いなんかなんの意味もないことをよく知り抜いていたからである。そう、彼はまったくの必要から禁酒主義者になろうとしているのだ。昨日以後はどうしても、だ。だからこそ、同じ理由から昨夜の乱ちき騒ぎに出かけたのだ。どうしてもそうせずにはいられなかったのだ。
 彼は顔から腕をどけ、ゆっくりといやいや眼をひらいた。寝ているのは自分のベッドではなかった。部屋も自分の部屋ではなかった。一度も見たことのない部屋だった。自分の部屋ではないが、豪華な部屋だった。そのときの彼の身心の状態であってさえも、すばらしいと思われた。たしかにホテルの一室、それも最上級の、最高の値段のホテルだ。調度は美しく、上品だった。壁もカーテンもすっきりとして、少しも目ざわりではなかった。額の絵などもよく選んであった。ベッドはすばらしかった。
 明らかに、昨夜、彼はたいそうすてきな人たちに出会ったらしい――もっとも、出会ったのは浮浪者どもで、どこかの横町の濡れた舗道に顔を押しつけた恰好で目をさましていたとしても、この宿酔(ふつかよい)の気分には変わりはなかっただろうが。前夜のすてきな人たちの一人は女だった。紅紫色の繻子(しゅす)製のキルティングの上掛けはホテルの品ではなかった。頭文字入りの枕カヴァーもだ。趣味にうるさく、洗練された大金持の女、旅行するときには専用のシーツや上掛けをいっしょに持ち歩く女。彼女は美人で気がやさしくて独身だろうかと彼は考え、そしてそれから、そんなことは昨日以降はもはや彼にとってなんの問題でもなくなったのだと自分に言い聞かせた。
 ふたたび彼は眼をとじ、眠るんだと自分に言い聞かせた。まだ暗いんだと考えようとした。眠り。すてきな眠り。夢も見ず、さまたげるものもなく、死んだように眠る。必要なのはそれだ。彼は黒いものをいろいろと思い浮かべてみようとした。黒びろうど、黒猫、黒檀(こくたん)、鉱山の底。自分は今、きれいな自家用ヨットに乗っているところなんだと考えてみようとした。そう、自家用ヨットでハヴァナに向かっているところで、ひたひたという波の音が聞こえてくるんだと。病院に入院しているところなんだと考えてみようとした――もちろん、ちっとも深刻な病気じゃない、そう、くるぶしをくじいたとかそんなことだ――白い壁がしんと静かで、看護婦や医者たちが彼を介抱し、世の中から守ってくれているのだ。おじいちゃんの農場にいるところなんだと考えてみようとした。小さな屋根裏部屋、かすかに夕闇の忍び寄る頃で、葉をそよがせる木々の根かたでコオロギが鳴いているのが聞こえる。昨夜のことを思い出す以外のありとあらゆることを彼はやってみた。こんな明けがたの時間では、それはいつだって悲惨そのものなのだった。
 だが、今朝ばかりは、彼はどうしても思い出してしまった。今朝こそは彼がどうやってももう一度眠れない朝だった。
 彼はうめき、ベッドの上に起き直って脚を下に垂らした。手足が冷えきっていた。一瞬、彼はふるえ上がり、半病人のようになっていた。が、頭のほうははっきりしていた。初めのちょっとのあいだがいつも問題なのだ。そのあと、足と心がもう一度しっかり通じ合いはじめた。彼は部屋の中を歩いて行って、化粧台の鏡に映った自分の顔をみつめた。
 ひどい姿だった。ほっそりしたハンサムなその顔は真っ蒼で生気がなく、黒い髪はくしゃくしゃで脂が浮いていた。片方の頬には小さな傷がある。どこかの歩道の割れ目につまずいたときに拵(こしら)えたのだろう。大きな薄青い眼が血走って、じっとこっちを見据えていた。
 だが、ここの主人はなかなか趣味のいいパジャマを用意してくれていた。ドレッシング・ガウンも同じくだった。ベッドの裾のほうにほうり出してあった茶色のブロケード製のそれを拾い上げて着こみ、ベルトを結んだ。それから浴室へ行き、冷たい水で顔を洗い、髪にブラシをかけた。少々ふらふらするものの、ふたたび、彼は見られる恰好になった。
 隣の部屋にはコーヒーがあるらしい。匂いでわかる。隣の部屋へ通じるドアを押しあけ、一瞬、彼は棒立ちになってそこを眺めた。いつ、どこで、どうやってそこにいる連中と知り合ったのか思い出そうとしてみた。今までに会ったうちで最高のブロンド美人がソファの一つに寝そべって、湯気の立つコーヒーをすすっていた。彼女の髪はストレート型で、輝いて、精製した蜂蜜の色に近かった。その目鼻立ちの繊細な顔は光を放つかと思われるほど白かった。背が高く、脚は長く、優雅そのもの。薄緑色のラメのディナー・ドレスを着て、駝鳥の羽根毛のついたサンダルを履いている。彼が入って行くと、彼女は彼にほほえみかけ、「おはよう。コーヒーを召し上がれ」と言った。
 ソファのもう一方のはじに寝ころんでいた男は大柄で、やせていて、ぜんぜん気取っていない。くしゃくしゃの赤毛、真っ青な眼、そばかす、そして愛嬌のある笑顔。彼も顔を上げて言った。
「やあ、きみもひでえ気分だろう?」
 三人目の人物は身動きすらしなかった。小柄でずんぐりしているが、たくましい肩。シャツの胸もとは誰かがその上で五目並べ遊びをしたとでもいうような状態になっており、ネクタイは片方の耳の下へとひん曲っている。丸い顔は赤らんで汗ばみ、黒い髪が一房、額に垂れかかっている。無精髭がのびはじめていた。大きな安楽椅子に沈みこんで、いびきをかいている。
 ブロンドの女はコーヒーを注いでさし出した。「おすわりなさいな。私はヘレン・ジャスタスよ。これは私の夫のジェーク・ジャスタス。シカゴでナイトクラブを経営していますの。彼はそれを賭けで手に入れたのよ。(『大あたり殺人事件』参照)それからそっちにいるのはジョン・J・マローン、アメリカ一の名弁護士なの。もし、あなたが人を殺したときは、彼に頼むといいわ」
 青年はコーヒーを受けとり、椅子に腰を下ろそうとしながら言った。「僕はデニス・モリスンです。ぼくをいっしょにつれて来て下さってありがとう。ぼくは――」彼はコーヒーを一口すすり、突然、カップをテーブルに置いてとび上がった。「女房が!」
「彼女は許してくれるよ」ジェークがのんきそうに言った。「普通はそういうもんだよ」
「そんな意味ではないんです」デニス・モリスンは言った。「ぼくたちは昨日、結婚したばかりなんです。四時にです。夕食をとりました。それからこっちへ来たんです。ホテルへ」赤ら顔の小男ジョン・J・マローンが目をさまし、頭のよさそうな、まるで冷笑をこめたような眼つきでこっちを眺めているのに彼は気がついた。「バーサは少し荷物の整理をしなくちゃならなかったんで。ぼくはなんとなく――そのう、べつに迷惑だったわけじゃないんですが、でも――ああ、つまり、そのときのぼくの感じ、わかってくれるでしょう?」
 ブロンド女性のヘレンは彼に同情するようにほほえみかけ、その夫のジェーク・ジャスタスはあたたかく言った。「わかるとも」
「それでですね――それで、ぼく、一杯呑みたいと思ったんですよ。それから、彼女も少し一人になりたいんじゃないかと。そういうものでしょう? そこで、バーへ下りて行って呑んだんです。二杯呑みました。そのあと、いろいろな人に出会ったんです。いっしょにもう何杯か呑みました。そして、そのあとは――」彼は黙りこみ、眉を寄せた。「どうなったのか、よくわからないんです。どこかのナイト・クラブでフロア・ショーを見たようなおぼえはあります。たいしたショーじゃありませんでした。それからタクシーに乗った、それはおぼえているんです。でも、あなたがたに会ったことやここへ来たことやそれからそのほかの何一つ、ぜんぜん――」もう一度黙りこんでから、「バーサ!」
「きみ」ジョン・J・マローンが言った。「今、きみに必要なのは酒だよ。浴室にバーボンがある」

……巻頭より

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