「大はずれ殺人事件」

クレイグ・ライス/ 小泉喜美子訳

ドットブック版 278KB/テキストファイル 188KB

600円

ジェークにとって、それはこよなく愉しい夢見心地の宵だった。以前から恋こがれていたヘレンとやっと結婚できたのだから。ところが、そのパーティの席上、シカゴ社交界のナンバー・ワン、モーナ・マクレーンが`「絶対つかまらない方法で人を殺してみせる」と公言したのである。よせばいいのにジェークはその賭けにのった。なにしろ、彼女が失敗したらナイト・クラブがそっくり手に入るのだ! その翌日、群衆の中で一人の男が殺された……。そもそもはたして、これはモーナ・マクレーンの仕組んだ犯罪なのか? 弁護士マローンとジェーク、ヘレンのトリオが織りなす第一級のユーモア本格ミステリ。

クレイグ・ライス(1908〜57) アガサ・クリスティの独創性、ダシール・ハメットのスピード感、ドロシー・セイヤーズのウィットを複合して独特の語り口で結合させたと評される、アメリカを代表する女性作家。笑いのある本格ミステリというユニークな作風は、他の追随をゆるさない。他の代表作に 「大あたり殺人事件」「こびと殺人事件」「幸運な死体」「スイートホーム殺人事件」など。

立ち読みフロア
 のちに、その古ぼけた黒いオーヴァーコートを着た小男の足どりは、南はヴァン・ビューレン・ストリートまで判明した。ステートとヴァン・ビューレンの交叉点の南のどこかはっきりしない地点で、その足どりは絶えていた。もっとも、その男はもう死んだあとだったから、それはべつにたいした問題ではなかった。
 彼がステート・ストリートに最初に姿を現わしたのは、これは疑う余地なく証明されたことなのだが、ヴァン・ビューレンの北西の角の地点で、高架線に通じる階段のちょうど下のところだった。彼はそこでちょっと足を停めて新聞を買った。新聞売り子は彼をはっきりとおぼえていた。とくに、彼が小銭をさがして、すり切れた革のがま口の底をかきまわしたしぐさなど、はっきりと。
 そのあとでこの小男が発見されたとき、新聞はまだ読まれもせず、売り子がたたんだかたちのままで彼の脇の下に挟んであった。
 誰が見ても目に立ちそうもない男だった。クリスマス直前の週のステート・ストリートではとくにそうだった。背は標準よりやや低く、猫背で、たいそうやせていた。線の鋭い顔の骨の上にぴったりと貼りつけられたような皮膚は不健康に蒼白かった。眼はほとんど無色と言ってもいいくらいの薄いブルーで、魚の眼みたいにとび出し、かすかに見ひらかれていた。乱れた白髪が四、五本、汚い黒い山高帽の下から覗いていた。新聞売り子は、彼が喘息気味みたいな咳を混じえた、細い、ぜいぜいいう声でしゃべったのをおぼえていた。
 全体的に言って、彼はごく普通の、目立たぬ小男であった。だから、彼の死体の写真が〈タイムズ〉の第一面に掲載されたあと、彼がステート・ストリートを歩いて行く姿を見たのをおぼえている人がじつにたくさんいたのは驚くべきことだった(殺人課のダン・フォン・フラナガン警部の意見はべつとして)。まるで、その午後、クリスマスの買い物ラッシュの頂点のステート・ストリートにいた人たちは全員、この古ぼけた黒いコートの小男の姿を見かけて心にとめた、とでもいうみたいだった。
 とは言え、ヴァン・ビューレン・ストリートとこの小男が急に散歩をやめたその街角とのあいだで、彼がどこに立ち寄り、何をしたのかがあとで判明したのは、これらの人々の自発的な情報提供によるものであった。彼はべつに急いではいなかったようである。新聞売り子は彼が立ち寄ったのはきっかり二時五分前だったと断言した。彼の次に来た客が赤い帽子をかぶった女の子で、それが時間を訊ねたからであり、そして彼の腕時計(お祖父さんからもらった品)はいまだかつて狂ったことがなかったのである。
 小男が例の街角に来かかったのは、ステートとマディスンの両方の通りの上にそびえている大時計でちょうど二時十五分だったことは、まず疑いの余地がなかった。百人もの証人がそれを証言すると申し出た。
 二つの地点の距離は長めの街区(ブロック)四つにすぎなかったから、彼の進みかたは遅かったわけだ。ヴァン・ビューレン・ストリートのすぐ北で、彼は〈リアルト・バーレスク劇場〉の前に立ちどまり、正面を飾っている色つきポスターを眺めた。一瞬、彼は劇場のなかに入って行くのかとも見えたが、やはり気を変えたらしく、そのまま北へと進んだ。同じ街区をもう少し行ったところで、しかるべきクレジット・サーヴィスで買える安物の衣類でいっぱいのショー・ウインドウの前で、もう一度、足を停めた。ジャクスン・ブールヴァードの角で、彼はオーク・パークのルイス・ホイットマン氏の運転する自動車にあやうくひかれそうになった。じつに間一髪のところだったのだが、小男はどうにか助かった。
 ステート・ストリートの歩道はクリスマスの買い物客で壁からどぶまでぎっちりだった。街灯の柱はクリスマスの葉飾りで飾り立てられ、ウインドウにはありとあらゆるクリスマス・デコレーションがきらめき、拡声機からは鐘の音だのアンプのかかったさまざまのクリスマス・ソングだのが流れて、たがいに相手を圧倒しようとがなり合っていた。救世軍の女兵士たちやアメリカ義勇軍のサンタ・クロースたちが至るところの街角で小さな鐘を叩き鳴らしていた。ステートとジャクスンの交叉点では〈ロスチャイルド〉の巨大なクリスマス・ツリーが通りいっぱいに、北はレーク・ストリートの高架線のあたりまで立ちはだかっていた。冷たい風が吹き、ときおりは灰色の氷雨までぱらついたが、それでもクリスマスを前にした群衆の熱狂に水をさすには至らなかった。あたり一帯が一つの巨大な、騒々しい、ごった返したカーニヴァルのようだった。
 しかしながら、この古ぼけた黒いコートの小男はクリスマスの買い物をしていたわけではなさそうだった。少なくとも、彼が何かそういったものを買ったという痕跡は一つもなかった。
 彼はステートとアダムスの交叉点の角にあるドラグストアに立ち寄り、ソーダ・ファウンテンの店員に重曹(じゅうそう)を少々と炭酸水を一杯、頼んだ。この店員は、のちに訊問されたとき、それは二時ちょうど、あるいは二、三分過ぎだったと思うとのべた。
 小男はドラグストアを出て、しばしの間、戸口に立っていた。往きかう人波にもまれながら、どっちの方角へ行こうかと迷っているように見えた。それから、ようやく決心がついたらしく、アダムス・ストリートを横切る買い物客の渦のなかへと分け入って行った。
 アダムス・ストリートのすぐ向う、〈フェア〉の角のショー・ウインドウのそばで、ほとんど通り抜け不可能と思われるくらいの歩行者の混雑があった。たしかに、一瞬、彼はその角のはじっこでためらっていたらしい。ウインドウの玩具の飾りつけのところへ行こうとひしめいている群衆を見守っていたが、やがて、そのあいだをかき分けて行く代りに歩道のぎりぎりの縁をまわって人ごみを避けようと決めた。
 それは、彼のその午後二度目の命拾いだったかもしれない。
 ショー・ウインドウの華やかな飾りつけなどには目もくれず、彼はゆっくりと〈フェア〉の前を過ぎ、モンロー・ストリートのすぐ南側の小さい店々の前を過ぎ、その角の大きな雑貨店の前も通り過ぎた。モンロー・ストリートの南西の角でふたたび立ちどまり、交通信号の変わるのを待った。彼がそこに立っているあいだにアメリカ義勇軍のサンタ・クロースが一人、希望をこめて彼に手を振ったが、ぼんやりとした、無関心な視線でみつめ返されただけだった。
 モンロー・ストリートを過ぎると、彼の歩みはさらにゆっくりとなり、歩道の内側のはじばかりをたどりながら、一、二度立ちどまって、ウインドウのなかの婦人靴の飾りつけにじっと見入ったりした。二軒ある〈クレスゲ〉はぜんぜん無視したが、ステートとマディスンの交叉点の南西に来ると、ドラグストアの〈リゲット〉の前にだいぶ長いこと立ちどまって万年筆のショー・ウインドウを眺めていた。たしかに、彼はいやに長いあいだ、そこに立っていた。もしかすると、何か不安のようなもの、その通りを横切ることについての悪い予感のようなものを抱いたのかもしれない。いや、結局は、それほどたいしたことではなかったのだろう。ドラグストアのウインドウのそばに立って、一度か二度、神経質に通りをちらりと見やるぐらいのことはしたかもしれないが、かと言って、彼はべつになんの危険も予知できなかったことはたしかなのだ。それとも、ある種の戦慄、引き返そうとする衝動は感じたのかもしれない。そういうことは、いつまで論じてもきりがない。
 昔から世界でももっとも混雑している街角と言われているステートとマディスンの交叉点は、そのときは一年中でも最高にごった返していた。〈ボストン・ストア〉の大時計の真下で、群衆はほとんど身動きもできぬくらいにひしめいていた。買い物客たちは動く玩具でいっぱいのウインドウのほうへと押し寄せる。また、他の一群は建物の回転ドアのなかへなだれこもうと必死になる。さらにべつの一群がそれぞれ四方八方、好き勝手な方角へ行こうとしてこの混雑のなかをかき分け、もみ合うのである。あたりは人声、電車、自家用車、タクシーの音、通りの両側の拡声機ががなり立てる二つのクリスマス・ソングのメロディ、そして絶えずひっきりなしに鳴りひびく小さな鐘の音、などで耳もつんざけんばかり。
 マディスン・ストリートを横切ろうと決めたとき、かの小男が突入したのはこの大群衆の只中だったのである。今度は彼は群衆のまわりを遠まわりしようとはしなかった。
 もちろん、あとになって、この混雑した往来の喧噪にもかかわらず、銃声を聞いたと主張する者も何人かいた。だが、このときには何一つ気がつかなかったのだ。
 群衆のなかの大きな一部分が北へと動いていて、古ぼけた黒いコートを着たその小男はそのまんなかに巻きこまれ、まわりで動く人々に圧迫されて十歩か十五歩、そのまま進まされた。それから、〈ボストン・ストア〉の入り口を少し過ぎたあたりで群衆がややまばらになりはじめたとき、彼はふいに身体のバランスを失ったように見えた。
 彼が倒れるところを見ていた者は一人もいなかった。べつに叫び声も聞かれなかったが、両手いっぱいに荷物を抱えこんだ一人の大女(エヴァンストンのJ・マーティン夫人)が自分の足もとに男が倒れているのに気がついた。彼女は悲鳴を上げ、荷物をみんな落とした。そのマーティン夫人を見て、もう一人の女が同じく叫び出した。
 何かの神慮とでも言うべきもののおかげで、つづいて起こった混乱のうちにも死体は見分けがまったくつかなくなるほどには踏まれなかった。やがて、一人の警官がこの混乱した、ヒステリー状態の群衆をかき分け、ようやくその騒ぎの中心へと入って行った。初め、その男はこの混雑のまんなかで単に卒倒しただけなのだと思われた。そんなことはさして珍しくはない。だが、その警官エドワード・ガヘーガンはその男が死んでいることを発見した。
 しかし、さらに応援が到着し、群衆をもう何フィートか押し退がらせるまでは、小男の死体をもっとよく調べるどころではなかった。そして、結局、その背中に弾丸の穴が発見されたのである。


……巻頭より

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