「柳沢騒動」

海音寺潮五郎作

ドットブック 343KB/テキストファイル 160KB

300円

俗説のなかに埋没している柳沢騒動をほりおこし、客観的な歴史の光をあてて再生したユニークな作品。作者は史実のなかにふかくふみこんで、丹念に素材を洗い出し、そこから当時の時代色をみごとに再現してくれる。将軍綱吉も、柳沢吉保も、牧野成貞も、また水戸光圀も、納得のゆく人物像として造型されている。海音寺の戦前の代表作の一つであり、戦後の「武将列伝」や「西郷隆盛」等に代表される歴史大作につながる作品。

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

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席次(せきじ)

 一

 貞享(じょうきょう)三年正月、柳営(りゅうえい)年賀の日である。
 諸大名旗本総登城の式日(しきじつ)なので、広いご本丸もひどく賑わっていたが、さすがに大廊下の間は三家方(さんけがた)と甲府家の詰所(つめしょ)になっているだけに、しんと静かであった。
 紀州綱教(つなのり)卿は退屈しきっていた。元服こそしているが、綱教卿はやっと十一歳にしかなっていなかった。上座(じょうざ)の尾州(びしゅう)光友卿は六十二歳の老人であり、自分の次席に坐っている甲府綱豊(つなとよ)卿(後に六代将軍家宣(いえのぶ)となる)は二十四歳の壮年であり、ご相手に出ている老中らも皆大人であり、挨拶が済むと、もう何にも話がないのである。
 最初のうちは、綱教卿は、色の白いふっくらとした顔に黒い眼をみはって、人々の話に耳を傾けていたが、大人同士の会話はわからないことばかりが多くて、すぐ厭(いや)になった。退屈げに、襖の絵を見たり、声も立てず音も立てず、影法師のようにひっそりと茶の給仕をしたり火を持って来たりして、立働いているお坊主共の青い頭を見たりしていたが、間もなくそれにも飽(あ)いたので、今度は自分勝手な空想に耽(ふけ)ることにした。
 先ず考えたのは鶴姫(つるひめ)のことであった。
 鶴姫は、現将軍綱吉の娘で、綱教卿の北の方である。十一歳の少年が妻帯しているということは現代の我々には異様に感ぜられるけれども、当時の上流階級にはそれほどめずらしいことではなかった。鶴姫は一つ違いの十歳であった。婚約はずっと前、綱教卿が五歳、鶴姫が四歳の時から出来ていたのを、昨年輿入(こしい)れして来たのである。
 勿論、二人ともに人事を解する年頃ではないので、名のみの夫婦――ままごとの夫婦のようなものであったが、表立って夫と定まり、妻と定まってみると、子供心にもおのずからな情愛は湧いた。
(どうしているであろう――)
 正月のことだし、いつにもまして美しく化粧して女雛(めびな)のように端然と坐って女中らの祝儀を受けている頃だと考えた。
 女中らの美しい着物の模様や、色彩(いろどり)や、櫛(くし)や笄(こうがい)のきらめきや、脂粉の香や、微(かす)かな酒の酔いに華やかになった声や――一時に思い出されて、色のある美しい霞にでも包まれたように、身中(みうち)がぼっと温かくなって、無暗(むやみ)に屋敷に帰りたくなったが、儀式が済まない以上、そんな我儘なことの出来るはずのものではなかった。
「帰ったらすぐ奥へ行こう」
 歌がるたや、仕舞や、能楽や――奥で女中らを相手にして遊べるかぎりの遊戯を次から次へと想い出しては楽しんでいたが、ふと、光友(みつとも)卿が、
「水戸殿は遅うござるな」
 と言い出した言葉に、楽しい空想の糸は断(き)れた。
 水戸殿――
 と聞いただけで、綱教(つなのり)卿は胸に真黒な雲が蔽(おお)いかぶさって来るような厭な気がした。水戸殿はきびしい人だ。老人に似合わず、することにも、言葉にも圭角(けいかく)があって、人の過失など微塵も容赦しないような厳格なところがある。こういう老人は決して子供に好かれるものではないが、綱教卿には特別に水戸殿を嫌うわけがあった。
「さよう、いつもお早い方でござるに、今日はまたいかがなされたのでござろうか。まさか、ご病気と申すのではありますまいな」
 綱豊卿が答える。これはまた心配げな調子であり、自分の老父のことでも話しているようななつかしげなところさえある。これにもわけがある。
 同じ理由が、綱教卿には水戸侯を嫌わせ、綱豊郷には水戸卿を慕わせているのである。
「さようなことはござるまい。――どうだな、ご病気ご不参というのではあるまいな」
 光友卿は接待の老中にたずねた。老中は水戸家から何のお届けもない故、やがてご出仕なさるであろうと答えた。
 間もなく、話は、水戸侯のことを離れて他の方に向ったが、綱教卿の不快になった心は、いつまでもそこにしがみついていた。

 二

 なぜ、水戸殿が綱教卿にとって不快な人となったか――事は将軍の継嗣(けいし)問題に関係している。
 四代将軍家綱が死んだ時、綱吉は館林(たてばやし)家から入って五代の将軍となったが、これは、次兄の甲府綱重が死んでいたからであって、もし綱重が生きておれば、綱重が五代の将軍となるはずであった。

 家光(三代)
    ―家綱(四代)
    ―綱重―綱豊…(甲府家)
    ―綱吉(五代)…(館林家)

 こういう系図になっているのである。
 水戸侯光圀(みつくに)は、自分でも、兄頼重を超(こ)えて家を継いだことを心苦しく思って、自分の後嗣(あとつぎ)には、実子があるのに、頼重の子綱条(つなえだ)を貰ってすえたほどの人なので、綱吉将軍も自分の後嗣には兄の子である甲府網豊を立てるであろうと予期し、そうさせねばならぬとまで思いこんだ。
 ところが、綱吉はそうすまいとした。綱吉は綱豊の父綱重がきらいであった。兄弟ではあるが、性格が合わなかったためか、それとも、幼い時から事毎(ことごと)に張り合うように育てられたためか、いい感情を持たなかった。従って、その子の綱豊に対しても親しみを持つことが出来なかった。
 将軍になると、綱吉は自分の子の徳松を世子(せいし)として西の丸に入れた。勿論、光圀(みつくに)は正面切って異論をとなえたが、綱吉は強引に押し切った。
 それから三年――
 その徳松が病死したので、曲りなりにもともかくも納まっていた世子(せいし)問題が再燃することになった。
 綱吉将軍は、丁度その頃、徳松の姉の鶴姫と婚約の出来た紀州綱教に意を傾けて、側用人の牧野成貞(なりさだ)を尾州家と水戸家につかわして、こう相談させた。
「この度、鶴姫様には、紀州家綱教卿との間にご婚約がととのいましたが、つきましては、姫君ご幼少のことなれば、綱教卿を二の丸にお入れ申してご婚儀遊ばされることにいたしたいとのご上意(じょうい)でございますが、いかがでございましょうか」
 勿論、綱吉の真意は明瞭だ。こうして、入婿のような形で綱教を迎えて二の丸に置き、あまりめだたなくなったところで、改めて世子に直す、という肚(はら)なのである。
 人並すぐれて鋭い光圀(みつくに)である。どうしてここに気づかないことがあろう。一儀に及ばず反対した。
「それはよろしくあるまい。姫君はご幼少にもせよ、立派な附人(つけびと)もあること故、紀州邸でご婚儀なされてもお気づかいなことはあるまい。お城でご婚礼なされると同じようにご安心なすってよろしい。どうしてもご心配とあらば、姫君はまだご幼少なのだし、ご心配のない年頃にご成人なさるのを待ってご婚礼されても遅いことはないと存ずる。その上、紀伊殿がお城へ入ってご婚礼なされるのは差支えないといたしても、いずれ、姫君ご成人の後にはお城を出て屋敷にお帰りにならねばならぬわけだが、考えてみると異(い)なものに見えはせぬかな」
 今度は光圀(みつくに)が勝った。理の当然に、綱吉は押し通すことが出来なかった。
 それから、更に四年目――
 去年の二月、いよいよ婚儀が取り行われて、鶴姫が紀州家(け)へ迎えられて間もなくのことだ。牧野成貞からまたご三家に対して相談をかけた。
「ご承知の如く、上様(うえさま)も今年で四十におなり遊ばされましたが、徳松様以後、若君様ご出生(しゅっしょう)がございません。上様も常におさびしく思し召していらせられるように拝しますが、つきましては、ご養君をなされたらばと存じますが、いかがなものでございましょうか」
 光圀(みつくに)は先ずたずねた。
「それはご上意(じょうい)か、それともその方の考えか」
 言うまでもなく、将軍の密意をふくんでのことではあったが、またこの前のように反対を唱えられて引ッこめるようなことがあっては将軍の威光に関すると思ったので、牧野は、
「ご上意ではございません。てまえ一人の料簡(りょうけん)で申上げているのでございます」
 と答えた。すると、光圀は言った。
「ご養君の心配などまだいるまい。四十と申せば、まだご老年というほどのお年ではない。もう若君がお出来にならんと思いきってしまうのは早計(そうけい)と申すものだ。また、万が一にも、お出来にならんとしても、ご養君になるべき人に事欠かれるようなことは決してない。先ず甲府殿がおられる。この方をお立てになるのが最も順に叶うたものと存ずるが、その甲府殿をお立てになることがどうしてもお厭(いや)だということなれば、その次には尾張殿がいらせられる。尾張殿をお厭ならば、三番日には紀伊殿がおられる。紀伊殿もお厭とならば、不肖(ふしょう)ながら、わしの子の綱条(つなえだ)がおる。ご養子など、そうあわててお立てにならんでもよろしい」
 これは光圀の痛烈な皮肉であった。綱吉に対して、養子を選ぶ順序を教え、紀伊侯綱教(つなのり)の継承順は三番目であることをあてこすったのであった。
 今度も光圀が勝った。養君問題はまた立消えになった。
 ――以上が、網豊卿が光圀卿を慕い、綱教卿が光圀卿を嫌う原因であった。勿論、子供である網教卿に、ほんとの水戸侯がわかるはずはなかった。家来共や、女中共の言うままに、意地悪で、変屈で、とりわけ、自分に対しては悪意を持っている老人だと信じこんでいたのである。

……
冒頭より

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