「横から見た赤穂義士」

三田村鳶魚著

ドットブック版 308KB/テキストファイル 162KB

700円

「忠臣蔵」で知られる赤穂義士ほど有名な伝説はない。だが、「その真相は?」となると、「伝説」の言葉どおり、これほど五里霧中の闇の中に沈んでいるものはない。つまり、謎が多く、いろいろな解釈ができ、自由自在に料理できる素材ともいえる。そうしたなかにあって、三田村氏のこの本は、あくまで実証・考証に立場を置きながら、自在に観察した一件の顛末を記した貴重なもの。章立ては「義士に仕立てたのは誰か」と問う「四十六人の偶像化」にはじまり、「浅野の殿様かたぎ」「粋を通す内蔵助」「百二十五人から四十六人」「二月四日 の切腹」「講談の根本資料」「女の子のゆくえ」「後室瑤泉院」「義士ぎらい」まで。義士の切腹時のようすなど、興味深い話もいっぱい。

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、江戸学の祖といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

立ち読みフロア
 義士の中に切腹の仕方を知らないものがあったというので、随分評判になっておりますが、その人は奥田孫太夫でありまして、身分を申せば、新参者ではありますが、赤穂の馬廻役をつとめ、百五十石を貰っております。年配はと申すと、五十六になっている。この人は新参者で、内匠頭長矩の代に赤穂へありついたのでありますが、その祖父というのは、奥州中村の相馬長門守の浪人であったそうです。親父は一代浪人であって、それから孫太夫というわけで、これが町人や百姓の子供から成り上って、士(さむらい)になったというのではない、武家の家に生れたのでありますから、いかに浪人の子供とは申せ、武士の嗜みがまるでないということは、どうも考えられないのであります。
 しかるに、この人は腹を切ることを知らなかった。これは一面には、当時の武士という武士が、皆畳の上の奉公であって、概して武士の嗜みが薄くなっております。それを証拠立てる一つの話だとも思えますが、四十六人で約束をきめて、本望を達した上は、無論どうなるかくらいの心得はあるはずである、今までは知らなくって済んでもいたろうが、この時は是非心得ておかなければならないくらいの気は、つきそうなものだと思う。赤穂の城の明渡しから討入までと申せば、一年有余の間がある。そのひまに習っておけないこともないはずである。それどころじゃない話で、それが、中小姓とか、足軽とかいうような軽輩であれば格別のこと、武士として武士の家に育てられたものが、それほどの嗜みがないということは、一体がおかしいのである。けれども、奥田孫太夫は全く知らなかった。
 細川家へ預けられてから、つけられている堀内伝右衛門に対して、自分は腹を切ることを知らないから、心得ておきたい、という話があった。堀内は、自分も、ためしもおぼえもないことであるが、式作法だけは知っているといって、着ている肩衣を脱ぐことだとか、切腹刀の取りようとか、肌の寛げようとか、刀の突き立て方とかいうことを、一応話した。そうすると孫太夫が、その型の通りを実際やってみようというので、今肌を脱ごうとするところへ、磯貝十郎左衛門と富森助右衛門が出て来て、そんなことはいらん稽古だ、その場になれば、ただ打たれてしまえばいいんだから、そんなことはよせよせ、といってとめてしまった。この途中で遮(さえぎ)った二人は、その嗜みがあったからであるか、それとも今更そんなことを聞くということが、みっともないという心持から、外聞を厭(きら)ってそれを遮ったのか、その辺はわからない。けれども世間では、孫太夫が不覚であるということは決していわずに、まことに正直に打ち明けて、それらのことを聞いておこうとしたところに、いいところがあるといって、例の通り褒めている。世間では四十六人のことというと、何でも褒めるのだから、これもやはり褒めるので、義士伝というものは、何でもかでも、頭から尻穂まで、褒め通すのが珍しくない事柄でありますけれども、これは何としても不覚であり、不嗜みである。これから考えてみると、孫太夫は困るといけないと思って、おくればせにでも聞いてみたが、聞くのは外聞が悪いし、実は知らないということから、そのままうち過ぎた人間もいくらもあったろうと思う。
 義士の切腹というものについては、たいそう委しく伝えられているようであって、その実伝えられていない。たまに伝えられているのは、皆打ち消しつきで伝えられている。大石内蔵助は、見苦しい切腹ぶりであったという。どんなふうに見苦しかったかは、伝わっていない。けれども、そういうはずはない、あれだけの忠義に凝(こ)った、しかも四十六人の棟梁である彼が、そう見苦しいはずはない、という言葉で打ち消してしまって、調べようとしていない。主税と富森助右衛門は、切腹の前に当って涙をこぼしていた。助右衛門のごときは、新参者であるのに、内匠頭長矩に引き立てられた、その御恩を思うと、今更涙がこぼれるのだ、といって、その落涙をも打ち消している。主税も、まことに武士の作法で切腹を仰せ付けられたことが面目の至りである、というので涙をこぼしたのであろう、といってよく推量している。ここで思い出されるのは、安政の大獄のおしまいに、小塚原(こづかっぱら)で頼三樹三郎が首を打たれる前に、声を放って泣いた。時勢を憤る涙が絶えなかったのだ、というふうに解釈されているが、何の心持でどうして泣いたのか、それはわかったものではない。一体が士気を鼓舞して、団結の力で押してきたのでありますから、四十六人の中でも、有力な人は、いかなる場合にも心持の砕けることはない、きまった覚悟が動きそうもないが、それは四十六人皆ことごとくに望まれないことであったろうと思います。その切腹の模様がどんなであったかということは、僅かに垣間見ることが出来る。

……「二月の四日 」冒頭


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