「妖怪談義」

柳田国男著

ドットブック版 268KB/テキストファイル 139KB

400円

「我々の畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったでしょうか」…柳田国男はこのような問題意識から、さまざまな「妖怪」の正体を明らかにしていく。おばけの声、幽霊、川童、天狗、ザシキワラシ、小豆洗い、山姥、一つ目小僧、片足神などが次々と俎上にのせられ、それらの根源が明らかにされていく。巻末には妖怪名一覧を収録。

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。  

立ち読みフロア
 一

 化け物の話の一つ、できるだけきまじめにまた存分にしてみたい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却(かんきゃく)せられたる部面であり、従ってある民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれによって、通常人の人生観、わけても信仰の推移をうかがい知るにあった。しかもこの方法をやや延長するならば、あるいは眼前の世相に歴史性を認めて、徐々にその因由(いんゆ)を究(きわ)めんとする風習をも馴致(じゅんち)し、迷いも悟りもせぬ若干のフィリステルを、改宗せしむるの端緒(たんしょ)を得るかも知れぬ。もしそういう事ができたら、それは願ってもない副産物だと思っている。
 私は生来オバケの話をすることが好きで、またいたって謙虚なる態度をもって、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うならば、相手が悪くなったからである。まず最も通例の受返事(うけこたえ)は、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものは、あるものでござりましょうかと来る。そんな事はもう疾(とっ)くに決しているはずであり、また私がこれに確答し得る適任者でないことは、わかっているはずである。すなわち別にその答が聴きたくて問うのではなくて、今はこれよりほかの挨拶のしようを知らぬ人ばかりが多くなっているのである。偏鄙(へんぴ)な村里では、怒る者さえこの頃はできて来た。なんぼ我々でも、まだそんな事を信じているかと思われるのは心外だ。それは田舎者を軽蔑した質問だ、という顔もすれば、また勇敢に表白する人もある。そんならちっとも怖いことはないか。夜でも晩方でも女子供でも、キャッともアレエともいう場合が絶滅したかというと、それとは大ちがいの風説はなお流布している。何の事はない自分の懐中にあるものを、出して示すこともできないような、不自由な教育を受けているのである。まだしも腹の底から不思議のないことを信じて、やっきとなって論弁した妖怪学時代がなつかしいくらいなものである。ないにもあるにも、そんな事は実はもう問題でない。我々は、オバケはどうでもいるものと思った人が昔は大いにあり、今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである。

 二

 都市の居住者の中には、今はかえって化け物を説き得る人が多い。これは一見不審のようであるが、その実は何でもないことで、彼らはほとんと例外もなく、幽霊をオバケと混同しているのである。幽霊の方ならば、町の複雑した生活内情の下(もと)に発生しやすく、また少々は心当りのある人もあって、次々の噂は絶えず、信じて怖れおののく者も出て来るので、これをわが同志者と心得て意見を交換しようとすると、がっかりする場合ばかり多いのである。幽霊もそれ自身討究されてよい現象であり、また最初の聯絡(れんらく)と一致点はあったかも知らぬが、近世は少なくともまるで物がちがっていて、こちらは言わばお寺の管轄であった。それをオバケとはいう者はあっても、化け物というとまだ何だか変に聞こえる。お岩も累(かさね)も見覚えがあるからこそこわいので、これを化けて出るというのは言葉の間違いである。〈へんぐぇ〉というからには正体が一応は不明で、しまいに勇士に遭って見顕(みあら)わされるものときまっている。それを平知盛(たいらのとももり)幽霊なりなどと、堂々と自ら名乗って出たものと一つに見るのは、つまりは本物の種切れとなって後まで、なおこの古い名前に対する関心の失(う)せていなかった証拠とも見られる。
 誰にも気のつくようなかなり明瞭な差別が、オバケと幽霊との間にはあったのである。第一に前者は、出現する場処がたいていは定(き)まっていた。避けてそのあたりを通らぬことにすれば、一生出くわさずに済ますこともできたのである。これに反して幽霊の方は、足がないという説もあるにかかわらず、てくてくと向うからやって来た。彼に狙(ねら)われたら、百里も遠くへ逃げていても追い掛けられる。そんな事はまず化け物には絶対にないと言ってよろしい。第二には化け物は相手を択(えら)ばず、むしろ平々凡々の多数に向かって、交渉を開こうとしていたかに見えるに反して、一方はただこれぞと思う者だけに思い知らせようとする。従うて平生心がけが殊勝で、何らやましいところのない我々には、聴けば恐ろしかったろうと同情はするものの、前もって心配しなければならぬような問題ではないので、たまたま真っ暗な野路などをあるいて、出やしないかなどとびくびくする人は、もしも恨まれるような事をした覚えがないとすれば、それはやはり二種の名称を混同しているのである。
 最後にもう一つ、これも肝要な区別は時刻であるが、幽霊は丑(うし)みつの鐘が陰にこもって響く頃などに、そろそろ戸をたたいたり屏風(びょうぶ)を掻(か)きのけたりするというに反して、一方は他にもいろいろの折がある。器量のある化け物なら、白昼でも四辺を暗くして出て来るが、まず都合のよさそうなのは宵と暁の薄明りであった。人に見られて怖がられるためには、少なくとも夜更けて草木も眠るという暗闇の中へ出かけてみたところが商売にはならない。しかも一方には晩方の幽霊などというものは、昔から聴いたためしがないのである。おおよそこれほどにも左右別々のものを、一つに見ようとしたのはよくよくの物忘れだと思う。だから我々は怪談と称して、二つの手をぶら下げた白装束のものを喋々(ちょうちょう)するような連中を、よほど前からもうこちらの仲間には入れていないのである。

 三

 そこで話はきっすいの晩方のオバケから始めなければならぬのだが、夕をオオマガドキだのガマガドキだのと名づけて、悪い刻限と認めていた感じは、町ではすでに久しく亡びている。私は田舎(いなか)に生れ、また永いあいだ郊外の淋しい部落に住んでいるために、まだ少しばかりこの心持を覚えている。古い日本語で黄昏(たそがれ)をカハタレといい、もしくはタソガレドキといっていたのは、ともに「彼(か)は誰(たれ)」「誰(た)ぞ彼(かれ)」の固定した形であって、それもただ単なる言葉の面白味以上に、元は化け物に対する警戒の意を含んでいたように思う。現在の地方語には、これを推測せしめるいろいろの称呼がある。たとえば甲州の西八代(やつしろ)で晩方をマジマジゴロ、三河の北設楽(したら)でメソメソジブン、その他ウソウソとかケソケソとかいっているのは、いずれも人顔のはっきりせぬことを意味し、同時に人に逢っても言葉もかけず、いわゆる知らん顔をして行こうとする者にも、これに近い形容詞を用いている。歌や語り物に使われる「夕まぐれ」のマグレなども、心持は同じであろう。今でも関東ではヒグレマグレ、対馬(つしま)の北部にはマグレヒグレという語がある。東北地方で黄昏をオモアンドキというのも、やはりアマノジャクが出てあるく時刻だというから、「思わぬ時」の義であったらしく考えられる。
 村では気をつけて見るとこういう時刻に、特に互いに挨拶というものを念入れて、できるかぎり明確に、相手の誰であるかを知ろうとする。狭い部落の間ならば、物ごし肩つきでもたいていはすぐにわかるはずだが、それでも夕闇が次第に深くなると、そうだと思うが人ちがいかも知れぬという、気になる場合がずいぶんある。最も露骨なのが、何吉かと呼んでみたり、またはちがってもよいつもりで、丁寧に「お晩でございます」といったりする。それもしないのはもう疑われているので、すなわち、いわゆるうさん臭いやつである。だからこのような時刻に里を過ぎなければならぬ他所者(よそもの)は、見られるために提灯(ちょうちん)を提(さ)げてあるく。その前はおそらく松の火であったろう。見馴れぬ風体で火もなしにあるくというのは、化け物でなくとも、よくない者にきまっている。そう取られても致し方のないところに、旅の夕のかなしさというものは始まっている。それがこの節は町の子供などに、もう提灯は火事か祝賀会か、涼み舟ぐらいの聯想しか浮かばなくなった。そうしてまた白昼にも知らぬ人同志が、互いにウソウソと顔を見てすれちがうようになった。化け物の世界も一変しなければならぬわけである。
 
……冒頭より

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