「友情論・恋愛論」

ボナール/山口年臣訳

ドットブック版 184KB/テキストファイル 147KB

500円

人間心理の動きを探求し、人間の性状と気質の機微をさぐり、人間のあり方、人間の条件を示し、人間いかに生くべきかを教えることに専念する精神の持ち主のことをフランスではモラリストと呼ぶ。モンテーニュ、ラ・ロシュフコー、パスカル、ラ・ブリュイエールのほか、新しいところではスタンダール、アミエル、アランなどがその代表者であり、ボナールもその一人である。ボナールの代表作「友情論」「恋愛論」は、心理小説を読む楽しさと珠玉の言葉に満ち、古くから愛読されてきた古典である。

アベル・ボナール(1883〜1968) ポワティエ生まれのフランスのエッセイスト、作家。詩人としてデビューした後、「友情論」などを著し、アカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。第二次世界大戦中にヴィシー政府の文部大臣を務めたことで、対独協力の罪に問われてスペインに亡命した。代表作は「友情論」「恋愛論」「聖性の詩人フランチェスコ」など。

立ち読みフロア
 友情についても他のあらゆる大きな感情についてと同じことがいえる。つまり、その名称だけが広く一般的なのである。
 ふつう、友情の名で呼ばれるものは習慣か同盟にすぎない。たいていの人々は、愛するということなしにけっこう済ましてゆく。しかし、ひとりぼっちでいることをたいへん恐れている。それでいて、この危険をもうおそれる必要がなくなりさえすれば、自分のことをこの危険から守ってくれるものを正しく知るということなど、彼らにとってたいして重要ではないのだ。どんなに徹底した利己主義者でもだれか二、三の人々を必要としない者はない。利己主義者はその二、三の人々を自分の利己主義のうちに包みこんで、それが友情をなすものであると信じこむ。けれども、これらの感情に正しい判断をくだすには、その表われ方を観察すれば十分である。秋のある時期を友人のひとりと過ごすことに慣れて、もし友人が会合の約束にたがえることがあればくやしがるその同じ人が、十月には、いらいらと待ち求めるが、八月にはその友とあってもしかたがなかっただろう。その当時は、そのひとの時間はほかのことでふさがっていたのだから。
 老人たちが、その生活に深いつながりのあっただれかの死に際して示す悲嘆も、これと同じである。彼らは自分の習慣の崩壊に茫然(ぼうぜん)自失のありさまなのである。彼らはひとりの人間を失ったのを悲しむのではなく、自分の時間の空虚なのを経験するのである。幼友だちが、いつもあんなに心楽しく、ありがたいのも、これとおんなじ理由なのである。
 それにもかかわらず、われわれが結ぶことのできるあらゆる関係のうちで、習慣がこれほど大きな役割を占め、真の選択がなおざりにされているものはない。けれどもわれわれがそれらの仲間をひじょうな好意を持って考えるのは、彼らがわれわれ自身の生活を思い出させるからである。彼らは、われわれがそこに自分の歴史を読み取る小説に似ている。われわれは彼らに、自分の思い出という衣装のすそを持たせるのだ。男同士のあいだに見られる友情のほとんどは、かれらの意志によってかき立てられるよりも、むしろ、かれらの無精(ぶしょう)の結果として生ずるもので、はなはだ雑多の状況がその原因となり得る。そうしたことがなければ、われわれが別に気にとめなかっただろうようなだれかが、われわれを尊敬しはじめ、まさにそれによって、われわれに、ある権利を持つことがある。われわれを選んでくれた者を選ぶまいとし、またわれわれをあえて他の者と区別して認めてくれる者を、取るに足りない者と思いつづけるには、想像以上の自由と、なにものにもとらわれない心とが必要である。時が過ぎゆくにつれ、すべてこうした偶然性の友情は強固確実なものとなって、ついには、われわれ自身、その友情の発生の際には偶然に支配されたものであったことが、わからなくなってしまう。

……「友情論」冒頭より

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