「雪国の春」

柳田国男著

ドットブック版 464KB/テキストファイル 165KB

400円

「二十五、六年も前からほとんど毎年のように、北か東のどこかの村をあるいていたが、紀行を残しておきたいと思ったのは、大正九年の夏秋の長い旅だけであった。それを『豆手帖から』と題して東京朝日に連載したのであった」…この時の紀行文を中核に、北の風土に行なわれる行事、祭事、伝承をつぶさに記し、それらを日本文化論にまで広げてみせた著者初期の代表作。南国を記した『海南小記』と対をなす。

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。

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 われわれの祖先がかつて南の海端に住みあまり、あるいは生活の闘争に倦(う)んで、今一段と安泰なる居所を求むべく、地続きなればこそ気軽な決意をもって、流れを伝い山坂を越えて、次第に北と東の平野に降りて来た最初には、同じ一つの島がかほどまでに冬の長さを異にしていようとは予期しなかったに相違ない。幸いにして地味は豊かに肥え、労少なくして所得はもとの地にまさり、山野の楽しみも夏は故郷よりも多く、妻子眷属(けんぞく)とともにいれば、再び窮屈な以前の群れに、帰って行こうという考えも起こらなかったであろうが、秋のあわただしく暮れ、春の来ることのおそいのには、定めてしばらくの間は大きな迷惑をしたことと思う。
 十和田などは自分が訪ねてみた五月末に、雪を分けてわずかに一本の山桜が咲こうとしていた。越中の袴腰峠(はかまこしとうげ)、黒部山の原始林の中では、ともに六月初めの雨の日に、まだ融けきらぬ残雪が塵(ちり)をかぶって、路の傍に堆(うずたか)く積んでいた。旧三月の雛(ひな)の節句には、桃の花はなくとも田の泥が顔を出していると、奥在所の村民は来てみてこれを羨んだ。春の彼岸の墓参りなどにも、心当りの雪を掻きのけて、わずかな窪みを作って香花(こうげ)を供えて帰るという話が、越後南魚沼(みなみうおぬま)の町方でも語られている。あの世に行って住む者にも寂しいであろうが、この世同士の親類朋友の間でも、たいていの交通は春なかばまで猶予せられ、他国に旅する者の帰ってこぬことにきまっているはもちろん、相互いに燈の火を望みうるほどの近隣りでも、無事に住んでいることが確かなかぎりは、訪(おとな)い訪われることが自然に稀(ま)れであった。峠の双方の麓の宿場(しゅくば)などが、雪に中断せられて二つの嚢(ふくろ)の底となることは、常からの片田舎よりもなおいっそう忍びがたいものらしい。だからめいめいの家ばかりを最も暖かく、なるだけ明るくして暮らそうとする努力があった。親子兄妹が疎(うと)み合うては、三月、四月の冬籠りはできぬゆえに、誰しもこの小さな天地の平和を大切にして、いつかは必ずくる春を静かに待っている。こういう生活が寒い国の多くの村里では、ほぼ人生の四分の一を占めていたのである。それが男女の気風と趣味習性に、大きな影響を与えぬ道理はないのであるが、雪が降れば雪見などと称して門を出(い)でて山を望み、もしくは枯柳の風情を句にしようとする類(たぐい)の人々には、ちっとも分らぬままで今までは過ぎてきたのである。

 燕(つばめ)を春の神の使いとして歓迎する中部ヨーロッパなどの村人の心持は、似たる境遇に育った者でないと解しにくい。雪が融けて始めて黒い大地が所々に現われると、すぐにいろいろの新しい歌の声が起こり、黙して草むらの中や枝の蔭ばかりを飛び跳ねていたものが、ことごとく皆急いで空にあがり、または高い樹の頂上にとまって四方を見るのだが、その中でも今まで見かけなかった軽快な燕が、わざわざ駆け回って、幾度かわれわれをして明るい青空を仰がしめるのを、人は無邪気なる論理をもって、緑がこの鳥に導かれてもどってくるもののごとく考えたのである。春よ帰ってきたか、のただ一句は何度くり返されても胸を浪(なみ)打たしむる詩であった。嵐、吹雪(ふぶき)の永い淋しい冬籠りは、ほとほと過ぎ去った花のころを忘れしめるばかりで、もしか今度はこのままで雪の谷底に閉ざされてしまうのでないかというような、小児に近い不安を味わっていた太古から、引続いて同じ鳥が同じ歓喜をもたらしていたゆえに、これを神とも幸運とも結びつけて、飛び姿を木に刻み壁に画き、寒い日の友と眺める習(なら)いがあったのである。そうしてこれとよく似た心持は、また日本の雪国にも普通であった。
 すなわちかくのごとくにしてようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも超越する。例えば奥羽の所々の田舎では、碧(あお)く輝いた大空の下に、風はやわらかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一せいに花を開き、その花盛りが一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇もないうちに、艶麗(えんれい)な野山の姿はしだいしだいに成長して、白くどんよりとした薄霞の中に、桑(くわ)は延び麦は熟していき、やがて閑古鳥(かんこどり)がしきりに啼いて、水田苗代(なわしろ)の支度を急がせる。
 このいきいきとした季節の運び、それと調子を合わせていく人間の力には、実は中世のなつかしい移民史が隠れている。その歴史をしみ透ってきた感じが人の心を温めて、旅にあっては永く家郷を思わしめ、家にいては冬の日の夢を豊かにしたものであったが、単に農人が文字の力を傭(やと)うことをしなかったばかりに、その情懐は久しく深雪の下に埋もれて、いまだ多くの同胞の間に流転することを得なかったのである。

 そうしてまた日本の雪国には、二つの春があって早くから人情を錯綜(さくそう)せしめた。ずっと南の、冬の短い都邑(とゆう)で、編み上げた暦が彼らにも送り届けられ、彼らもまた移ってきて幾代かを重ねるまで、その暦の春を忘れることができなかったのである。全体日本のような南北に細長い山がちの島で、正朔(せいさく)を統一しようとすることが実は自然でなかった。わずかに月の望(もち)の夜の算(かぞ)えやすい方法をもって、昔の思い出を保つことができたのである。しかるに新しい暦法においては、さらに寒地の実状を省みることなくして、また一月余(ひとつきあまり)の日数を去年から今年へくり入れたのである。これが西洋の人のするように、正月を冬と考えることができたならば、その不便もなかったのかしらぬが、祖先の慣習は法制の感化をもって自然に消滅するものと予測して、なまじいに勧誘を試みようとしなかったために、ついにこういう雪国においても、なお正月はすなわち春と、かたく信じてかわらなかったのである。
 東京などでも三月に室(むろ)咲きの桃の花を求めて、雛祭りをするのをわびしいと思う者がある。去年の柏(かしわ)の葉を塩漬にしておかぬと、端午(たんご)の節供(せっく)というのに柏餅(かしわもち)は食べられぬ。九月は菊がまだ見られぬ夏休みの中なので、もう多くの村では重陽(ちょうよう)を説くことをやめた。盆も七夕(たなばた)もその通りではあるが、わずかに月送りの折合いによって、なれぬ闇夜に精霊(しょうりょう)を迎えようとしているのである。
 しかし正月となるとさらにいま一段と大切なる賓客(ひんきゃく)が、雪を踏み分けて迎えられねばならなかった。正月さまとも歳徳神(としとくじん)とも福の神とも名づけて、一年の福運を約諾(やくだく)したまうべき神々がそれであった。暦の最初の月の満月の下において、ぜひとも行われねばならぬ儀式がいくつでもあった。人も知るごとくこれらの正月行事は、一つとして農に関係しないものはなかった。冬を師走(しわす)の月をもって終わるものとして、年が改まれば第一の月の三十日間を種籾(たねもみ)よりも農具よりも、はるかに肝要なる精神的の準備に、ささげようとしたのであって、すなわち寅(とら)の月をもって正月と定めた根源は、昔もやはり温かい国の人の経験をもって、寒地の住民に強(し)いたことは同じであった。たくさんのけなげなる日本人は、その暦法をかたく守りつつ、雪の国までも入ってきた。白く包まれた広漠の野山には、一筋も春のきざしは見えなかったけれども、神はなお大昔の契約のままに、定まった時をもってお降(くだ)りなされることを疑わず、すなわち冬籠りする門の戸を押し開いて、欣然(きんぜん)としてまぼろしの春を待ったのである。
 もしも新たに自分のために発明するのであったら、おそらくこのような不自然、不調和を受け入れることはしなかったであろう。辺土の住人が世間の交わりが絶えると、心安い同士の間には身だしなみの必要もなくて、鬚(ひげ)を構わなかったり皮衣(かわごろも)を着たり、何か荒々しい風貌を具えてくるのを見て、時としては昔袂(たもと)を別った兄弟であることを忘れようとする人たちもあるが、かりに何一つ他には証拠のない場合でも、かほどまでも民族の古い信仰に忠実で、天下すでに春なりと知る時んば、わが家の苦寒(くかん)は顧みることなく、また何人の促迫(そくはく)をも待たずして、冬のただ中にいそいそと一年の農事の支度にとりかかる人々が、別の系統から入ってきた気づかいはない。
 あるいは今日(こんにち)の眼から見れば、そんなにまで風土の自然に反抗して、本来の生活様式を墨守(ぼくしゅ)するにも及ばなかったのかもしれぬが、同じ作物、同じ屋作りの、いずれも南の島にのみ似つかわしかったものを、とにかくにこの北端の地に運んできて、辛苦の末にようやく新たなる環境と調和せしめたのみか、なおできるならばシベリアにもカムチャツカにも、はた北米の野山にも移してみようとする、それがむしろ笑止なる、この国人(くにびと)の癖であった。

……「雪国の春 三」より


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