「パリの憂鬱」
(小散文詩)

ボードレール/村上菊一郎訳

ドットブック 124KB/テキストファイル 91KB

400円

推敲に推敲を重ね出版の機会を待ち望みながら、ついに詩人の生前には刊行の日の目をみなかった詩集。「パリの憂鬱」は「悪の華」とならぶ、この詩人の代表作である。

シャルル・ボードレール(1821〜67)パリ生まれのフランスの詩人。幼くして父を失い18歳以降、放縦な生活を送る。美術批評でデビューし、かたわら詩集「悪の華」をまとめ、ヴェルレーヌ、マラルメ、ランボーと続く象徴主義の先駆者となった。

立ち読みフロア
十六 時計

 シナ人は猫の眼のうちに時間を読む。
 ある日、一人の宣教師が、南京(ナンキン)城外を散歩しながら、懐中時計を忘れてきたのに気がついて、とある童子に時刻を尋ねた。
 大清国(だいしんこく)の腕白児童は、最初もじもじしていたが、思い直してこう答えた。「いますぐ教えてあげますよ」まもなく、ひどく太った大猫を腕にかかえて再び現われ、噂にたがわず、その白眼のうちに時刻を見つつ、ためらうことなく断言した。「まだきっちり正午(おひる)にはなっておりません」それはまさしく合っていた。
 さて私はというと、私もまた、彼女の同類の名誉であると同時に、わが心の誇り、わが精神の香りであるところの、いみじくも名づけられた、美女フェリーヌ〔猫〕の上に身をかがめれば、夜でも昼でも、明るみの中でも、薄暗い物蔭でも、彼女の可愛らしい眼の奥に、つねにはっきりと時間を読む。いつも同じ一つの時間、茫漠(ぼうばく)として荘厳な、虚空(こくう)のように広大な、分や秒の区切りのない一つの時間を、――時計面には記されておらぬが、しかも吐息(といき)のように軽やかで、まばたきのように迅速(じんそく)な、不動の時間を。
 そしてもしも私の視線が、その心地(ここち)よい文字盤の上で休んでいるあいだに、誰かうるさい厄介者がそれを邪魔しにくるならば、もしも無礼な頑固な精霊か、あるいは時ならぬ悪魔がやってきて、「お前はそんなにしげしげと何をそこに見つめているのか? その女人の眼の中に何をお前は探しているのか? のらくらな浪費家よ、時間をでもそこに見ているのか?」と私に向って尋ねるならば、私はためらわずに答えるであろう、「そうだ、私は時間を見ている。それは『永遠』という時間である!」と。
 ところで、ねえマダム、この台詞(せりふ)こそ、実に賞讃に値(あたい)するところの、かつあなた自身と同じように大袈裟(おおげさ)な、相聞歌(そうもんか)ではありませんか? 実際、私はこんなふうに粋(いき)な気取った言葉を誇張して話すのが至極うれしいのです。しかし、何もそのお返しをあなたにおねだりするわけではありませんよ。



十七 髪の中の半球

 いつまでも、いつまでも、お前の髪の匂いを嗅がせておくれ。咽喉(のど)の渇いた人が泉の水にするように、その髪の中に私の顔をすっぽりとひたらせておくれ。思い出を中空にゆすぶるために、馥郁(ふくいく)たる手帛(ハンカチ)のように、私の手でそれを揺らせておくれ。
 お前の髪の中に、私の見るすべてのものを、私の感じるすべてのものを、私の聴くすべてのものを、お前もまた知ることができればいいのに! ああ、他人の魂が音楽の上を旅するように、私の魂は薫(かお)りの上を旅してゆく。
 お前の髪は帆布と帆檣(マスト)の充ちみちた一つの夢をすっかり含んでいる。それはまた大海原(おおうなばら)をも含んでいて、その貿易風は、空がひとしお青く、ひとしお深く、大気が果実や木の葉や人々の肌の香りに薫(くゆ)り立つ、あの魅力に富んだ風土のほうへと私を運んでゆく。
 お前の髪の大洋の中に、私は港をちらりと見る。メランコリックな歌声と、あらゆる国々のたくましい男たちと、常夏(とこなつ)の熱を湛えた涯(はて)しない精緻(せいち)な複雑な構造を浮き上らせている、あらゆる形の諸船(もろぶね)と、それらがこの港には群れつどうている。
 お前の髪を愛撫していると、私はまたしても思い出す、美しい汽船の一室で、港のあるかなきかの横揺れにゆられながら、植木鉢と素焼きの冷水甕(がめ)との間の、長椅子(ながいす)にもたれて過ごした、あの長い時間のけだるさを。
 お前の髪の熱い炉(ろ)の中に私は嗅ぐ、阿片(あへん)と砂糖とに混った煙草の匂いを。お前の髪の夜の中に私は見る、熱帯地方の青空の無限が光り輝くのを。お前の髪の絨毛(うぶげ)の生えている岸辺に私は酔う、瀝青(タール)と麝香(じゃこう)と椰子油(やしゆ)との互いに混り合う薫香(くゆりが)に。
 どうかこのまま、いつまでも、お前の重い黒髪の組み毛を私に噛ませておくれ。その弾力性のある、仕末に負えない髪を噛んでいると、私には思い出を食べているような気がするのだ。

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