「ツァラトゥストラはこう語った」

フリードリヒ・ニーチェ/秋山英夫・高橋健二訳

ドットブック版 325KB/テキストファイル 239KB

800円

「超人」と永劫回帰と価値の転換を主張する哲学的叙情詩。ゾロアスター教の始祖ツァラトゥストラは「ついに神は死んだ」と叫び、ふたたび人間のなかに帰り、宗教的な厭世主義を否定し、地上を讃美し生を肯定して「人間は征服するために生まれ、かつ生きる」と説く。

フリードリヒ・ニーチェ(1844〜1900)ドイツの哲学者。文献学を研究してバーゼル大学教授を勤める。「反時代的考察」でヨーロッパ文明の退廃を批判、「ツァラトゥストラはこう語った」「善悪の彼岸」においてキリスト教を堕落の根源として批判し、永劫回帰思想による生の肯定を説いた。

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 超人と末人について

  一

 ツァラトゥストラは三十歳の時、故郷と故郷の湖を去って、山にはいった。ここで彼はみずからの精神と孤独をたのしみ、十年間それに飽きなかった。しかし、ついに彼の心は変わった。――ある朝、彼は朝焼けとともに起き、太陽の前に歩み出て、太陽に向かってこう語った。
「なんじ、大いなる天体よ! もしなんじが照らすものを持たなかったら、なんじの幸福はどうだろう!
 十年間なんじはここでわたしの洞穴さしてのぼって来た。わたしがいなかったら、わたしのワシとヘビがいなかったら〔ワシとヘビは誇りと知恵の象徴〕、なんじはみずからの光と道とに飽きてしまっただろう。
 しかし、わたしたちはなんじを毎朝待ち、なんじの過剰を吸いとり、それに対しなんじを祝福した。
 見よ! わたしは自分の知恵に飽き飽きした。ミツを集めすぎたミツバチのように。――それを受けようと差しのばされる手がなくてはならない。
 わたしは贈り与え、分かち与えたい。人間の中の賢い者がふたたびその愚かさをよろこび、貧しい者がふたたびその豊かさをよろこぶようになるまで。
 そのために、わたしは低いところにおりて行かねばならない。なんじが夕方、さらにまた光を下界にもたらすために、海のかなたに沈む時するように! なんじ、あふれるばかりに豊かなる天体よ!
 わたしは、なんじとひとしく、下って行かねばならない。それを人々は《没落》と呼ぶ。わたしが下って行く目あてとする人々は。
 では、わたしを祝福せよ、なんじ、静かな目よ、あまりにも大きすぎる幸福をも、ねたみ心なく見ることのできる目よ!
 まさにあふれようとする杯を祝福せよ、水が黄金いろに流れ出で、いたるところになんじの喜びの反射を伝えるように!〔杯はツァラトゥストラの満ちあふれる精神をさす〕
 見よ! この杯はふたたびからになろうと欲する。そして、ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲する」
 ――こうしてツァラトゥストラの没落ははじまった。

  二

 ツァラトゥストラはひとりで山を下って行った。だれにも会わなかった。ところが、森にはいると、突然ひとりの老人が彼の前に現われた。森の中で草根をさがそうとして、神聖な小屋を出て来た老人であった。こうして老人はツァラトゥストラに語りかけた。
「このさすらい人にわたしは見おぼえがある。幾年か前、ここを通り過ぎたことがある。ツァラトゥストラという名であったが、彼は別人になってしまった。
 あの時、あなたはみずからの灰を山にはこんだ〔自己の過去を葬ったことをさす〕。きょうはみずからの火を谷にはこぼうとするのか。あなたは放火者の罰をおそれないのか。
 そうだ、まぎれもなくツァラトゥストラだ。彼の目は清らかで、口もとには嘔吐(おうと)のかげもない。それゆえ、さながら踊り手のように歩いて行きはしないか。
 ツァラトゥストラは変わった。ツァラトゥストラは子どもになった。ツァラトゥストラは目ざめた人だ。今さら、眠っているものたちのところで、何をしようとするのか。
 あなたは、海中に住むように、孤独の中に生きた。そして、海はあなたをささえてくれた。ああ、あなたは陸にあがろうとするのか。ああ、みずからの肉体をふたたびみずから引きずろうとするのか」
 ツァラトゥストラは答えた。「わたしは人間を愛する」
「なぜ」と聖者は言った。「わたしはなぜ森と荒地の中にはいったのか。人間をあまりにもはなはだしく愛していたからではなかったか。いまはわたしは神を愛する。人間を愛しはしない。人間はわたしにとってあまりに不完全なものだ。人間への愛がわたしを死なせるだろう」
 ツァラトゥストラは答えた。「わたしは愛について何を語ったろう! わたしは人間に贈り物を与えるのだ!」 
「人間には何ひとつ与えるな」と聖者は言った。「むしろ人間から何かを奪いとれ。そしてそれを彼らとともにになえ――それは彼らにとって無上の恵みであろう。そなたにとっては快いことであるにすぎぬとしても!
 彼らに与えようと欲するならば、施し物を与えるにとどめよ。しかも、彼らをしてそれをこいもとめさせよ!」
「いな」とツァラトゥストラは答えた。「わたしは施し物は与えない。それほどわたしは貧しくはない〔ツァラトゥストラは超人の理想を説くのだから、こまごました施し物をするほど貧しくない〕」
 聖者はツァラトゥストラを笑って、こう語った。「では、彼らがあなたの宝を受けるように、心せよ! 人間は、独り住むものに対して疑いぶかく、わたしたちが贈り物を与えるために来たことを信じない。
 わたしたちの足音は彼らの小路にあまりにさびしくひびく。夜なか、太陽がのぼるずっと前に、寝床の中でひとの足音を聞く時のように、彼らは自分にたずねる。『泥棒はどこに行くのだろう』と。
 人間たちのところへ行くな。森の中にとどまれ! むしろ動物たちのところへ行け! なぜあなたはわたしのようであろうと欲しないのか――クマの群れの中のクマ、鳥の群れの中の鳥で?」
「聖者は森の中で何をするのか」とツァラトゥストラはたずねた。
 聖者は答えた。「わたしは歌を作って、歌う。歌を作る時、わたしは笑い、泣き、つぶやく。こうしてわたしは神をたたえる。
 歌い、泣き、笑い、つぶやくことをもって、わたしは、自分の神である神をたたえる。だが、あなたはわたしたちに何を贈り物として持って来たか」
 ツァラトゥストラはこのことばを聞くと、聖者に礼をして語った。「あなたに与えるべき何をわたしは持っていよう! あなたから何ひとつ奪うことのないように、わたしをすみやかに去らしめよ!」こうして彼らは、老人と壮者は、たがいに別れた。ふたりの少年が笑うように笑いながら。
 しかし、ツァラトゥストラはひとりになると、自分の胸にこう語った。「いったいこんなことがありうるだろうか! あの老いた聖者は森の中で、神は死んだ、ということについてまだ何ひとつ聞いていないのだ」――

……巻頭より

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